明治二十四年(一八九一)九月十二日、商業俱楽府(以下、俱楽府と略)は豊平館において開会式を行った。発会に携わった主な人物は、福山米吉、近藤昇平、赤星栄三郎、有田信、小塩武吉、石塚猪男蔵、田中善吉、山崎孝太郎などおよそ二〇余人であった。商業俱楽府創設趣意書(道毎日 明24・9・6)によれば、その目的は「北海道に関する重要有益の時事問題を論談商議し完全最良のものを決定」することによって、「商業市府を作り富国振商の実を挙」げることにあった。初代役員は府長を有田信、幹事は小塩武吉、田中善吉、常議員は花村三千之助、山本喜平、赤星栄三郎、近藤昇平、石塚猪男蔵、山崎孝太郎、岡田佐助、今井藤七、玉井喜作、後藤慶治、西村季吉、加藤一魯とし、事務所は南四条西四丁目の山崎孝太郎が所有する家屋に開設された。
毎月第二土曜日の常集会では討論演説講話等を行い、毎年三月の定期総会では前年度の事務成績及び会計決算が報告され、臨時総会は府員五人以上の請求と、府長の承認によって開かれた(商業俱楽府規則)。俱楽府の会合についてはたびたび新聞報道されており、府員の演説や講話だけでなく、佐藤昌介や新渡戸稲造など学士による演説会も開かれている。この他、俱楽府では『札幌商報』という会報を発行していた。『札幌商報』は明治二十五年十二月頃に創刊され、商法講義、物価商況、経済事項や本道の商習慣を主な内容として毎週一回月曜日に発行されていたが、いずれも雑誌『北海民燈』に掲載された広告と新聞記事から推察されるものであって、詳しいことはわかっていない。