三十一年札幌には、中央政党との関わりによっていくつかの政党政派が組織されたが(第一章二節)、俱楽府ではそうした動きを受けて内部に混乱をきたしていた。それは、特定の政党政派に属する俱楽府員による俱楽府内での政治活動に端を発するものであった。このことは、不振な時期を迎えていた俱楽府に、会議所の設立問題を再び湧き起こらせるきっかけにもなった。
俱楽府と政党政派との関係には、三十一年十一月からの憲政党札幌支部(以下憲支部と略)と北海道同志俱楽部(以下同志俱楽部と略)との関わりと、三十二年九月からの憲支部と札幌実業協会(以下実業協会と略)との関わりの二つがあった。
まず憲支部と同志俱楽部との関わりであるが、ここでいう憲支部とは、憲政党の分裂後、自由党系のメンバーによって組織された新たな憲政党の支部を指している。俱楽府員の中には、旧憲支部の自由党と進歩党に属する両者がいたため、新たに組織された憲支部には進歩党の俱楽府員は含まれていなかった。新しい憲支部の結成後、間もなく旧進歩党系の人々は憲政本党を組織したが、俱楽府員で旧進歩党に属していた者は、俱楽府内に札幌商業研究会を設立することによって結束を固めようとしていた。札幌商業研究会の活動は、新聞報道された限りでは、商法、商業、法律経済の講演等、設立の趣意にいうとおり、「商業社会に於ける旧来の弊風を洗除し商業上に関する新法典及び経済学理の研究を為し以て商業智識の開発を図らんとする」(道毎日 明31・11・25)ものであった。しかし、旧憲支部の進歩党にはもともと多くの商業者が所属しており、それらの人々が自由党に対抗する形で、商業研究会を結束の手段に利用したと思われる。三十二年四月に起こった憲支部と同志俱楽部の合同問題によって、俱楽府内には憲支部と憲政本党との対立が露呈した。
自由党系、進歩党系の両派を含んでいた旧憲支部は、当時大通西三丁目にあった商業俱楽府の建物の一部を間借りしていたために、分裂後は憲支部と憲政本党の相対する党派が、同じ事務所に籍をおいていたことになる。このことは、俱楽府内において憲支部員と商業者との間に軋轢を生じ、憲支部と同志俱楽部の合同問題に至っては、憲支部は商業俱楽府からの立ち退きを余儀なくされた(小樽新聞 明32・8・3)。したがってこの立ち退きは、憲支部と俱楽府の問題であるばかりでなく、俱楽府員の憲支部派と憲政本党派の分裂でもあった。
次に実業協会と憲支部との関わりであるが、三十二年九月に非政社組織として発足した実業協会は、自治行政機関の政党化を阻止しようと、憲支部とは対立する立場にあった。そのような中で、俱楽府の府長であった谷七太郎が実業協会に籍をおきながら、憲支部の支部長浅羽靖に同調して、俱楽府の拡張すなわち会議所の設立問題を、憲支部の勢力拡大策として利用しようとしていた。谷のこうした動きが発覚することによって、谷は実業協会からは類憲政党として排斥されたが、俱楽府の府長としての谷は、今度は信用回復手段として実業家との密接な関係を築くために、再び会議所の設立をよびかけた。
しかしこれに賛同する者は少なく、俱楽府の将来を憂える府員によって、俱楽府の建て直しが図られた。
三十二年九月十三日の俱楽府総会がまさしく会議所設立問題の再燃の場であった。総会では、俱楽府は決していずれの党派にも関係することなく、本来の職分を尽くすこと、すなわち商工業の振興と商工業者の親睦を深めることが改めて確認された。俱楽府拡張の可否を採決する段に至っては、多数の拡張説を以て採択された。
俱楽府の建て直しの必要は、俱楽府員の誰しも認めるところであったから、会議所の設立問題は府員の意志統一の手段としては恰好の材料に違いなかったが、会議所の設立条件からみた実状はきわめて厳しかった。