第一回から第七回の選挙を通して、第一回を除く全ての選挙に候補者を出しているのが、札幌実業組合聯合会である。同聯合会は「各種の組合を以て組織し相互の気脈を通し商工業の改良発達を計る」(札幌実業組合聯合会々則)ことを目的に、明治四十一年三月二十三日創立された。初代の会長は奥泉安太郎、副会長は塚島由太郎、幹事は一柳仲次郎、赤塚茂吉、村岡治右衛門、塩谷春吉、久慈勘吉であり、塩谷春吉を除く六人はいずれも会議所の議員を務めている。事務所は会議所内に置き、経費も会議所の補助を受けながら運営していた(北タイ 明43・2・18)。創立当時は、区内に四二あった商工組合のうち(札幌商業会議所第一回年報)一五組合が加入していた(北タイ 明41・3・24)。
第三回以降の選挙には、札幌実業組合聯合会のほかにいくつかの団体名がみえ始めている。まず、札幌実業青年会は四十一年二月に実業問題を研究、討議する目的で発足した。四十二年十一月には解散式を挙げているが、翌年六月にはすでに復興していたらしく、会員一〇八人で活動を再開していた(北タイ 明43・6・2)。第三回選挙には、このほか質商組合、古物商組合、四回選挙には、薬業組合、銅鉄商組合が挙がっている。四十二年に札幌実業組合聯合会に加入していたのは、区内の商工組合四五のうち(第二回統計年報)二五組合であったため(最近之札幌)、これらは札幌実業組合聯合会に加入していない組合ではなかったかと思われる。
東方和合会は、祭典区七区の有志により組織され、第一回選挙では元同志会派から多くの商業組合とともに候補者を出していた。南四条懇和会、惟信会については、発会の趣旨、会員等詳しいことは明らかではない。
第六回選挙では、札幌実業組合聯合会に札幌工業会と札幌公友会が加わっている。札幌工業会は四十二年三月に発会し(北タイ 明42・3・16)、大正四年二月には札幌実業組合聯合会へ加入する案があった。しかし札幌実業組合聯合会は「工業会の実体が聯合会に包含し居るに就き更(あらた)めて加入の要なく且将来は這般の如き別種の運動は止めて貰ひたし」との態度を明らかにしたため(北タイ 大4・2・9)、札幌工業会は加入をとりやめたと思われる。一方、札幌公友会は政友会系の支持母体であった。会議所は政治抗争にまきこまれることは避けようと、議員選挙の後に行われた役員選挙では、「政党政派に関係なく適材を推薦すべ」(北タイ 大6・3・16)きことが呼びかけられたが、会頭には大瀧甚太郎、副会頭には久保兵太郎、いずれも公友会会員が選ばれた。
第七回選挙では、札幌公友会に札幌実業青年会が加わることで、政友会系と憲政会系の対抗関係が明るみに出た選挙となった。それまでの議員選で主導的役割を果たしてきた札幌実業組合聯合会は、わずかに二人の候補者を出すにとどまり、新聞では中立派と報道された(北タイ 大10・2・24)。当選議員の内訳は、政友会系が一七人、憲政会系一一人、中立派が二人であった。