四十一年五月十七、八の両日の大暴風雨で東橋が流失した。そのため橋梁架設までの臨時的措置として、二十六日より渡船場を設置した(以下北タイ 明41・5・27)。この橋の架設は翌四十二年四月に始まり、六月末竣工し(明42・6・26、29)、三十日に開通式を挙行した(明42・7・1)。
豊平橋は、四十二年四月の出水で、中央の橋台の下の地盤の土砂が流失して傾斜したため、人以外の通行が禁止された。そのため即時に仮橋を架設することになり、臨時に渡船を設けた(明42・4・9、10)。仮橋は本橋下流約二〇間のところに、幅三間、長さ五〇間三分の木製橋で、工事費は道庁の地方費予備費六五〇〇円を支出し、工事は南三条東六丁目の大星三松が請負い、契約当日より二〇日で竣工の予定であった(明42・4・15)。五月七日仮橋が落成、八日道庁第六部土井技師が検査し、通行を開始した(明42・5・9)。ところが四十三年六月再度の出水で、復旧工事中の豊平橋は「墜落し流出」し、さらに前年架設された仮橋も傾斜し、通行不可能になった。復旧工事は一月十一日より道庁技師土井良太郎が設計し、工事監督は主任技師松本一太郎で、道庁直営として開始されていたが、まったく無駄になってしまった(明43・6・8)。道庁では、豊平橋設計のために、以前の本橋設計者である岡崎文吉、今回の修繕工事設計主任技師土井良太郎、工事を所管することになる札幌土木派出所長技師谷口三郎、小樽築港技師越水義勇の四人を委員として、設計委員会を開いて研究することになった(明43・6・15)。大正二年九月とりあえず仮橋が竣工した(大2・9・10)。豊平橋の架設は最終的に大正十年から始められ、それまで仮橋で充用することになる。
また札幌区では四十四年東宮行啓の時に、豊平橋が仮橋では不体裁であるとして、南一条通から一直線に白石へ通じる新橋を設けてはという考えが起こった(明43・12・14)。この架橋案は、白石へ遊廓を移転するための伏線ととらえる向きもあった(大1・12・7)。しかし高桑市蔵、松田学、足立民治が発起人となり、有志が集まって独自に阪岡工学士へ設計を依頼した。一方道庁では完全な築設を計画し、三つの案をつくり協議しはじめた(大1・10・16)。区民有志ではこの四案を検討し、阪岡案に決し、建設費用二万三〇〇〇円は区民有志の寄付によることにして、区役所を経て道庁に対し工事施行許可を申請した(大1・11・7、21)。この後、橋の計画に加えて、接続する道路の開削整備の問題もあった(大2・11・15)ため、南一条橋の実現は大正十三年となる。