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丘珠村小作人聯盟

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 一方小作人側の動きであるが、同じ札幌村で九年六月、小作人聯盟なるものが設立されている(丘珠百二十年史編集関係史料)。では、この団体はどのようなことを目的としていたのであろうか。次にその規約を掲げておこう。
   丘珠村小作人聯盟規約
第壱条 聯盟者ハ協同一致シテ正当ノ権理ヲ主張シ当然ノ義務ヲ完フシ以テ各自生活ノ安定ヲ図ルヲ目的トス
第弐条 地主ヨリ不当ナル小作料増額ノ要求ヲ受ケタルトキハ其応諾前聯盟者ノ協議ニ付スルモノトス
第参条 地主ヨリ不当ナル理由ノ下ニ引上ゲラレタル聯盟者ノ借地ハ如何ナル事情アルモ聯盟者ハソノ土地ヲ小作セザルモノトス
第四条 前条ニ違背シタルモノハ聯盟ヲ除名シテ公ノ交際ヲ謝絶スルモノトス
第五条 第三条ニヨリ引上ゲラレタル土地ヲ小作スル聯盟者外□□ニ対シテハ第四条ノ制裁ヲ加フルモノトス
 大正九年六月 日
      札幌村大字丘珠村

聯盟者(略)


 以上の規約条文に続いて、南保外吉以下九九人の小作人が署名捺印を行っている。この規約から明らかなように、この丘珠村小作人連盟は、地主側の「不当ナル」小作料値上や土地引上げに対抗することを目的として設立されたものであった。
 以上みてきたように、札幌村では大正七年から九年にかけて、地主側と小作人側のそれぞれにおける組織化がなされ、両者の対抗的関係が鮮明となってくるのであるが、その背景には、明治三十二年段階で村内の小作地率が六一・二パーセントもの高率に達しているという事情があった。ちなみにこの年、札幌の北東部に位置する雁来村は五六・二パーセント、苗穂村は五六・九パーセント、丘珠村は五六・四パーセントという高い小作地率であったのに対し、豊平村は三五・二パーセント、平岸村は三七・二パーセント、月寒村は二九・五パーセントと比較的小作地率が低かった(市史 第二巻)。
 なお、全道的動きとの対比でみれば、地主会のほぼ同時的設立に較べて、小作人組合の設立はややおくれていたといえよう。