日露戦後においては、明治中期までに整っていった憲法・軍隊・教育・官僚機構・地方自治制などの国家の制度的枠組に対して、町や村といった地域あるいは社会をどう変えてゆくかが、課題となった。明治四十一年の戊申詔書発布を契機として地方改良運動が本格化するが、その中で官製の青年団・在郷軍人会・報徳会・農会・婦人会といった統合団体が新たにつくられ、小学校区を媒介にして御真影・教育勅語・二宮尊徳の像といった天皇制イデオロギーが浸透してゆくこととなる。明治四十四年一月十五日付の『北海タイムス』は「地方青年会」と題し、「近来一般に到る処其勃興の気運に向ひ来りて、陸続其発会式の報あるはこれ素より当局の勧奨に職由すべし」と伝えた。
そして、地方改良運動を主導した内務官僚井上友一は、四十四年五月の『北海青年』の中で「良村を作れ」と題し、「今日では最早世界は個人の競争より転じて団体の競争に移ってゐる(中略)今日では美はしい都市、美はしい町村を一つでも多く有するを国家の面目としてゐる」と、北海道の青年に訴えた。町村という地域の改良が、内務官僚の焦眉の課題となるのである。
ここでは日露戦後を契機とする地域の変化の問題として、青年会から官製の青年団への変化、在郷軍人会の活動、忠魂碑などの顕彰といった問題をとりあげよう。