ビューア該当ページ

小谷部の建議

513 ~ 514 / 915ページ
 小谷部は明治三十一年十二月に帰国するまでに二度にわたり、アイヌ教育の充実へ向けての建議を明治政府に提出している。最初は三十年八月で、先住民族への布教のために訪れたハワイ王国からである。「ホノルヽ府カメハメヤ土人学校の整備せるを見て、当時旧土人に対し何等見るべき設備なかりし吾国の状態、遺憾に堪へず」(北海道教育雑誌 第一六四号)として、ハワイ国駐在公使島村久を通じて政府に建議した。小谷部はこの建議の一方で、ハワイ王国での布教の経験を通して、「あの不幸な人たち(編註・アイヌ民族)を、文明の光の中に連れ出すのが、私の心からの宿題である」(小谷部 ジャパニーズ・ロビンソン・クルーソー)と考え、アメリカでアイヌ教育事業への協力者を募った。片山潜小谷部全一郎氏と北海の土人」によれば、小谷部はエール大学学長ドワイトらに協力を呼びかけたところ賛同を得、アメリカの外国伝道組織であるアメリカン・ボードを紹介された。ところが、アメリカン・ボードは「日本人に責任ある仕事をなさしむべからず」という理由で協力を断わった。
 この試みが失敗に終わり、小谷部は再びアメリカから明治政府に建議を提出した。三十一年のことである。この時は星亨が仲介し、文部大臣樺山資紀と内務大臣西郷従道にあてた。「米国に在りて土人学校を参観し、土人教育の完備せるに驚き、我が国先住民に対し何等の設備すらなきを概し(中略)、北海道及び台湾の土人教育に就き速かに施設」(小谷部 成吉思汗は源義経也──著述の動機と再論──)すべきことを建議した。これらの建議は、インディアンの合衆国市民への「同化」を企図したドーズ法を念頭におき、当時のハワイ王国やアメリカの先住民族教育とアイヌ教育の実情を比較しながら、後者の立ち遅れを指摘したものである。事実、三十二年の「北海道旧土人保護法」制定以前のアイヌ教育は、小谷部も指摘するように特別な対策は何ら講じられていなかった。
 小谷部の建議が明治政府内でどのように取り扱われたのかは不明である。高倉新一郎は「北海道旧土人保護法」制定の「有力な刺激」(高倉 アイヌ政策史)となったと述べているが、同法制定の準備過程と重ね合わせて考えると、その仮説には無理があるといえよう。