同会が明治三十三年五月十日の創立であることは先に述べた通りであるが、それは代表者(会頭)も任命していないなど形だけのものに過ぎなかった。それが具体的な活動を展開するための組織として確立したのは、近衛篤麿の「年譜」中に「〔明治三十三年〕七月北海道旧土人救育会評議員に挙げられる」(工藤武重 近衛篤麿公)と記されているように、創立から二カ月を経た同年七月のことである。同会の役員構成は次のとおりである(教育時論 第五四九号)。
この構成を見ると、役員は「主唱者」九人を軸に、新たに五人を加え合計一四人で構成されている。会頭に就任した二条基弘は、「北海道旧土人保護法」審議時の貴族院での「北海道旧土人保護法案特別委員会委員長」を経験している。湯本は開発社社長として、当時の教育ジャーナリズムを代表する『教育時論』誌の主幹であった。また、辻は当時の全国規模の教育団体である帝国教育会の会長で、貴族院議員をつとめていた。アイヌ民族の青少年が就学する教育機関の設立を目的としている同会にとっては、このような教育界の「大物」の加入は当然のことであった。長谷川、塚本の経歴などは不明である。
組織内部の事務分担として、「救育主任」には小谷部、「会計主任」には塚本、「学事主任」には坪井、「庶務主任」には湯本をそれぞれ任命した。既往の研究では、同会のなかでの小谷部の役割を過大に評価してきたが、それは誤りである。板垣と大隈以外の役員は定例の会議にはほとんど出席し、それぞれの職責を果たしていた。