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篤志看護婦人会

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 日清戦争の直前に設立された同会は、看護婦養成のいわばさきがけとなったことはすでに記したとおりである(市史第二巻参照)。本格的な看護婦養成が日赤道支部で明治三十年に開始されたのち、篤志看護婦人会は三十二年七月、日赤本社篤志看護婦人会の北海道支会となり全国組織へ加わった。平時は、冬期休業を除いて支会常集会が持たれている程度であった。三十四年五月に開催された常集会でも、最初に日赤本社総裁の写真を拝し、次に大塚富世子副支会長(のちに愛婦支部長・帝国婦人協会支部長を兼任)の会務拡張に関する演説が行われ、前年度の会計報告、役員選挙、規則改正の審議を終え、茶菓の饗応があって散会している(道毎日 明34・5・14)。

写真-10 日本赤十字社篤志看護婦人会会報

 三十七年二月に日露戦争が勃発するとにわかに忙しくなり、二十六日には日赤道支部派遣の救護員を見送った。三月十四日の常集会においては、総会後開戦にあたり陸海軍献納繃帯製造が即日決定され、篤志看護婦人会を二手に分け、一日おきに日赤道支部で作業にとりかかることとした(北タイ 明37・3・16)。この結果、陸海軍へ献納のために会員の寄付による巻軸帯一〇〇〇個を製造した。以下『護国之礎』より、日露戦争に関わる篤志看護婦人会の活動を列挙してみよう。
〔明治三十七年〕
四月十三日 第三回修業証書授与式挙行。一一人に証書を授与(修業生を出したのは二十八年十二月以来のこと)。
五月十七日 函館要塞病院及び要塞各隊慰問のため幹事佐藤陽子大島信子を派遣。また道支部所管救護隊および補充員出発の際、支会員は毎回札幌駅に見送り、餞別としてハンカチを贈る。出征軍人出発の際は愛国婦人会会員と協力して札幌駅まで見送り、茶菓を饗応す。
〔三十八年〕
九月五日 第四回修業証書授与式を行い、馬島イチ以下二二人に修業証書を授与。同年、出征第七師団傷病兵帰還のため日赤道支部、室蘭に患者休養所を設置。このため患者救護、慰問として副支会長大塚富世子以下数名ずつ交代出張し、作業従事すること二九回。患者に寄贈したハンカチ一一二八枚。旭川予備病院ならびに月寒分院患者慰問のため副支会長以下出張四回、登別温泉療養所に患者を慰問。出征軍人をねぎらうため札幌・岩見沢駅へ出張三五回。小樽港碇泊艦隊慰問一回。帰還傷病兵慰問のため札幌駅出張三〇回。救護班補充員見送り・餞別品を贈ること三回。帰還救護班歓迎一回。戦死者・遺骨到着および分配式等に副支会長以下会員参列。
〔三十九年〕
一月~三月 日赤道支部設置の室蘭患者休養所へ副支会長佐藤陽子以下数名ずつ交代出張、出征第七師団帰還傷病兵を救護すること七回。傷病兵に寄贈したハンカチ四三〇枚。
四月十四日 支会総会にて大塚富世子を支会長に、佐藤陽子を副支会長に嘱託。
五月十五日 第四回修業者二二人に修業証書授与。この月、第七師団、満州および樺太守備隊帰還につき歓迎のため札幌駅出迎え四回。
十二月五日 支会長大塚富世子辞職。

 このように、篤志看護婦人会はもっぱら出征兵士の送迎、傷病患者の慰問、戦死者・遺骨到着の出迎えなど、愛国婦人会と同様な活動をしている。その一方で、日赤道支部養成の救護看護婦は召集を受け、函館要塞病院や病院船で救護にあたった(後述)。