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暴風と水の被害

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 この時期の暴風による水の被害は、治水態勢の不備などで毎年春秋二度ずつ河川の決壊を繰り返し、洪水を引き起こした。そのおもなものを次に掲げる。
〔明治三十二年〕十月七~九日にかけての降雨により石狩・豊平川氾濫、雁来村民耕作物流失。同月十五日より十七日まで降雨のため発寒川氾濫、床下浸水六戸、浸水反別二〇町歩。
〔明治三十四年〕九月、降雨のため篠路・白石村方面出水のため被害。
〔明治三十五年〕四月三日よりの暴風雨により札幌区内、月寒・篠路・白石村出水、建物損害多し。九月二十六日よりの暴風雨により札幌区内、各村とも家屋、農作物被害甚大。
〔明治三十七年〕七月一日より篠路・白石村方面出水。家屋、田畑浸水多数。再び九日より十一日の降雨により豊平川氾濫、区内床上浸水家屋多数、各村とも耕地浸水、作物被害甚大。(八月水災救済会を設置し、義援金を募る)
〔明治四十年〕五月六日、篠路村方面出水のため浸水家屋約七、八〇戸、浸水耕地約八〇〇町歩。
〔明治四十一年〕四月二十一日よりの篠路村の水害、家屋、建物とも浸水、被害甚大。五月十七~十八日の降雨により豊平川堤防決壊、浸水家屋三七戸、田畑浸水あるいは流失。琴似・発寒・藻岩各村とも家屋、田畑とも浸水。ことに発寒川の増水甚だしく、浸水家屋四五戸、田畑二〇〇町歩余。
〔明治四十二年〕四月七~八日、洪水で豊平川鴨々水門決壊、浸水家屋八五〇戸、堤防の決壊三カ所、畑地浸水五町五反歩。豊平橋傾斜。(十一月石狩川治水会結成)
〔明治四十三年〕五月四日、大降雨により山鼻渡船場付近住民二人溺死。六月六日豊平川増水のため豊平橋脚流失。白石村二戸流失。水田一〇〇町歩埋没。(この後石狩川治水工事着手さる)
〔明治四十五年〕五月四日豊平川増水、堤防決壊。建物倒壊多し。藻岩村五人溺死。
〔大正二年〕八月二十七~二十八日、暴風雨により札幌区出水、浸水家屋五八五八戸、一一八万坪、二人死亡、豊平橋脚流失。
〔大正五年〕五月七~八日降雨により石狩川増水のため篠路村被害。床上浸水九〇戸。
〔大正八年〕五月、石狩川の氾濫により札幌支庁管内浸水家屋四〇〇戸、畑五〇〇町歩。
〔大正十年〕四月二十二日、石狩川増水大氾濫により篠路村当別太、茨戸方面田畑家屋浸水。
 このように毎年繰り返される暴風雨の対策として、治水問題に取り組むようになったのは、明治四十二年四月の大洪水を蒙ってからで、同年十一月十四日石狩川流域各町村に呼びかけて治水方針を確立し、水災に対する救済・警備の方法を探っていくというものであった(北タイ 明42・10・13)。
 大正二年に入ると、札幌火災予防組合各組長発起によって治水区民大会が催され、九月八日の大会には五〇〇人余が参集し、豊平川治水に関する期成同盟会設立を決議した(北タイ 大2・9・9)。同盟会では早速道庁長官に豊平川治水について陳情、大正三年度より豊平護岸工事費として三万六〇〇〇円が支出されることとなり(北タイ 大2・10・26)、三年六月起工された(北タイ 大3・5・28)。
 水難救済事業としては、明治三十七年の大水害の後、水災救済会を設立して水難者の救護にあたってきたが、大正七年帝国水難救済会委員部を改め、北海道支部設立のために基金募集をすることに決し、救難所費、会員醵金の徴収方法について協議し、八年一月一日をもって支部が発足した(北タイ 大7・12・25)。