明治が大正と改まった大正元年の歳末は、静まりかえっているどころか前年に勝る賑やかさであった。南一条通は創成橋を境に東西とも空高く万国旗を張り、街の両側にはイルミネーションを鮮やかに目も覚めんばかりに飾り立てていた。客の服装は二重マント、吾妻コート、大庇髪(おおひさし)、大形の丸髷、銀杏返し、お高僧頭巾(こそずきん)ありという具合に千差万別であった。一方の狸小路の方は、二丁目に軒を連ねる古着商と南三条通とが連合の大売出し中で、普段でも賑やかな街が、幾張りと数える万国旗の下に五色の旗が飾られ、人出の方も前年に勝るとも劣らぬ様子であった。一丁目の福引券交換所には、一日に二三〇〇余人も引換客が見えるといった具合で、景品には簞笥、茶簞笥、ボンボン時計、置時計、反物、蜜柑、タオルの類が準備されていたというから時代性をよくあらわしていよう(北タイ 大1・12・23)。
歳暮用贈答品として、当時丸井洋物店で最新流行の洋物を調べてみると次のようであった。
〔男物〕 メリヤスシャツ一組一円四、五〇銭~二円、ハンカチ一ダース三〇銭~一円、靴下スコッチもの半ダース七、八〇銭~五円、ゴム靴大人用オーバ足袋付二円二、三〇銭~三円二、三〇銭、同子供用オーバ足袋付一円四、五〇銭、帽子山高二円七、八〇銭より六、七円、洋服背広三つ揃一七、八円~五、六〇円、外套オーバ一五、六円~四〇円、インバネス仕出しもの八、九円~二七、八円、ネクタイ七、八〇銭~一円五〇銭、ホワイトシャツ一円四〇銭~三円。
〔女物〕 ミュゼーショール二円~五円、吾妻コート七、八円~二五円、簪(かんざし)二、三〇銭~五、六〇銭、櫛五、六銭~三〇銭、襟止め二、三〇銭~二、三円、オペラバッグ一円四、五〇銭~三円四、五〇銭。
〔その他〕 毛布二枚四、五円~二〇円、旅行鞄ズック屋根形もの五、六円、化粧品香水小瓶一四、五銭~一円五、六〇銭、白粉和製一四、五銭、同洋製八〇銭、洋酒類葡萄酒一本四、五〇銭~四円、同ウィスキー七、八〇銭~三円五〇銭(北タイ 大1・12・24)。
このように衣服の中に洋服がかなり浸透してきたり、女性の装身具、化粧品あるいは洋酒の類といった高級品が出回っており、贈答品としても用いられていたのがわかる。またメリヤスは、世界大戦の影響で羊毛が払底したことから需要が増した(北タイ 大3・12・22)。
衣服の和装から洋装へは、男物の方が先端をゆき、それに続いて子供洋服の普及が行われた。大正十年の生活改善展覧会(後述)においても発表され、北星女学校などを会場に子供洋服講習会が盛んに行われた。女物の洋装化は、女学校の制服に取り入れられるようになってから一般化したようである。
食文化では、すでに明治期から洋食屋はあったが、大正に入ってから洋食屋がカフェーを兼ねるようになり、洋食専門の中央軒がカフェーサッポロ中央軒と名前を新たにしたのも大正三年のことである。
世界大戦の影響を受けたのが、砂糖や小麦粉を用いる菓子、パンの類であった。砂糖は輸入途絶に加えて、台湾産の砂糖が不作であったことから高騰を招いた。同じく菓子の原料である小麦粉も輸入途絶のありさまで、内地産で一石一〇円だったものが一二、三円に高騰してしまい、結局大正三年九月段階で菓子は一割五分値上げされた。一方パン屋は原料騰貴のため、パンの行商人の中には廃業する者も出るありさまであった(北タイ 大3・9・10)。
乳製品は、地元で牛乳が大量に生産される割に飲料とするのは少なく、ほとんどが煉乳に加工され本州送りされていた。古谷辰四郎商店が牛乳の需要を伸ばすためにミルクキャラメルを生産したのは大正十四年のことで、すでに百貨店では森永キャラメルが販売されていた。
なお、札幌近郊農家で栽培されていたキャベツ、玉葱を使ったライスカレー、シチュー、それに豚肉を使ったコロッケも大正中頃には食卓にのぼるようになった。
住居は、屋上制限令といって札幌は大火が多いことから明治三十七年、従来の柾葺屋根から不燃物のトタン葺に変えることを奨励した道庁令が出されたが、住民の経済力不足から延期が繰り返されていた。実際に施行されたのは大正五年からで、七年開催決定の開道五〇年記念北海道博覧会を目前に控えていたからである。札幌の街並は、この道博を境にして札幌駅から中島公園、大通公園の目抜き通が装いを新たにした。店頭装飾も取り入れられ、街並景観を意識し始めたのもこの頃からである。
一方一般住宅の方は、札幌は地代が他都市と比較しても高い部類に属したため家賃の高騰を招き、人口の増加と重なって住宅不足を起こした。このため大正九年十二月、区営住宅九二戸が南一六条西五、六丁目に建築され、俸給生活者に貸与された。また、低利資金を貸し付けて住宅を建設する住宅組合が設立され、組合員の住宅取得を容易ならしめるとともに、これにより郊外の発展が促された(本章二節参照)。