周知のように、有島は明治二十九年に札幌農学校に入学、三十六年に米国留学、四十年に昇格した母校東北帝国大学農科大学の教官に任命された。有島は農学校在学中すでに「人生の帰趨」などを『学芸会雑誌』等に掲載したが、本格的な文筆活動はもちろん教官としての赴任以後である。まず農大では文武会の学芸部長となったこともあって、『文武会報』には五三号(明治四十一年)に「イブセン雑感」を、五四号には「米国の田園生活」および「日記より」(五五号まで)を、五七号から六五号まで「ブラント」を連載するなど、新しい文学、文物などの紹介も含めて、精力的な執筆を続けた。また当時あった農大文芸会でも講演を行った。一例をあげれば四十四年十二月の文芸会には河野常吉と共に講師となり、「暗示」という題名の講演を行っている(北タイ 明44・12・2)ほか、札幌を去ったあとも、大正六年十一月に農大文武会弁論部講演会でも「自我の考察」という題名の講演会を行っている。
写真-4 有島武郎
周知のように有島は『白樺』によって活躍したが、札幌を主題として扱ったものの代表として、「お末の死」と「白官舎」(のち「星座」と改題)があげられよう。「お末の死」は大正三年一月に『白樺』に掲載されたもので、有島が、新渡戸稲造が設立した貧しい子弟のための「遠友夜学校」の代表もつとめており、貧しい家に育ったお末の不幸な死を扱ったもので、社会主義にも深い関心を持ち、下層社会にも深く心を寄せていた作者の心情がよくあらわれている。「白官舎」は大正十年七月早々『新潮』に掲載され、さらに書きついで「星座」として出版された。明治三十二年五月以降の札幌農学校寄宿舎である白官舎に起居する学生の諸相を描いたもので、長編の序章となるはずであったが、有島の死によって未完に終わった。
またこの時期の札幌出身作家としては、前巻に引きつづき武林無想庵が活躍し、大正十一年に「結婚礼讃」などを発表しており、明治二十七年生まれの素木しづは同四十五年に上京、大正二年発表の「松葉杖をつく女」で文壇に登場したが、同七年に死去した。明治二十七年生まれの森田たまは、同四十三年に上京、大正二年発表の「片瀬まで」で文壇に登場し、随筆・小説の分野で長く活動した。このほか札幌生まれではないが、藤村(宇野)千代が夫の就職によって大正九年に札幌に住み、十年に時事新報の懸賞に応募した作品が一等に当選、十一年に上京したが、その間『北海タイムス』の文芸欄などに作品を掲載するなどの活動をみせた。