明治十年に開拓使の印刷所が札幌に移されて、札幌活版所となったことは前述のとおりである。それ以後出版文化は徐々に発展していったとはいえ、二十年代までの出版物のほとんどはまだ東京の印刷会社に依る所が多かった。しかし、三十年代も後半になると札幌でも印刷会社が建ち始め、地元で印刷が行われるようになった。明治三十二年から大正十一年までの印刷会社の工場は表5のとおりである。これらの工場は『札幌区統計(書)』及び『札幌区統計一班』の記述に拠ったものであり、途中記載されなかった工場が再び登場するなどして、創立年については多少正確性に欠けるところがあるが、当時どれほどの印刷工場があったのか知ることはできる。
表-5 印刷・製本・製紙工場 |
名 称 | 所在地 | 創立年 |
北海石版工場 | 大通西4 | 明26年6月 |
陽明堂印刷所 | 南2西1 | 26. 6 |
北海石版所 | 北2西3 | 27. 2 |
文栄堂活版所工場 | 北1西3 | 28. 4 |
於福堂野澤活版所 | 大通西5 | 28. 5 |
於福堂活版工場 | 南1西4 | 28. 9 |
山藤印刷工場 | 南2西6 | 29. 2 |
山藤活版所工場 | 南2西6 | 29. 9 |
活版印刷所博光社 | 大通西3 | 34. 7 |
北海タイムス社工場 | 大通西4 | 34. 9 |
北海タイムス合資会社 第一工場 | 大通西4 | 34. 9 |
博光社活版印刷工場 | 大通西3 | 35. 7 |
陽明堂石版工場 | 南2西1 | 36. 6 |
赤心堂活版所工場 | 南2西3 | 37.12 |
煥文堂清水活版所 | 大通西2 | 39.10 |
札幌印刷株式会社工場 | 大通西3 | 41.10 |
山藤活版所第二工場 | 大通西3 | 41.11 |
西村活版所 | 南1西4 | 41.12 |
北海タイムス合資会社 第二工場 | 大通西4 | 42. 4 |
高増活版所 | 大通西2 | 43. 3 |
北海道報社工場 | 大通西3 | 43. 3 |
三田印刷製本所 | 南1西1 | 43. 5 |
札幌毎日新聞社工場 | 大通西3 | 44. 3 |
北信堂活版所 | 南1西4 | 44. 4 |
直塚製本所 | 南2西5 | 45. 5 |
大畑印刷所 | 大通西2 | 大 1. 1 |
大畑活版所 | 大通西2 | 1.10 |
博光社活版印刷所 | 大通西3 | 3. 2 |
合資会社 赤心堂高橋活版所 | 南2西2 | 3. 8 |
博文舎印刷所 | 南2西8 | 5 |
赤心堂活版所 | 南2西2 | 5. 9 |
寺西印刷所 | 南2西4 | 7.11 |
藤井製紙所 | 苗穂町 | 8.12 |
山浦印刷所 | 北1西3 | 9 |
其水堂印刷工場 | 南2西5 | 11 |
1.各項目は初出の記述に拠った。 2.『札幌区統計(書)』『札幌区統計一班』等により作成。 |
このうち、山藤活版所は三十九年に「戦後各事業ノ発展ニ伴ヒ印刷物ノ増加ハ自然ノ結果」(北タイ 明39・10・31)として印刷機械の増設を計画し、同年十月初旬より設備が完成し、従来の倍以上の製造力となった。また、『札幌商業会議所報』一〇号の広告によると「諸官庁銀行会社御用達」でもあったようである。
この他、北海石版所も比較的早くから活躍しており、持主である本間清造はのち札幌印刷業組合の組合長をつとめた。
以上、出版が発達するための三つの要素について述べてきたが、三要素のそれぞれが発展したことにより、札幌の出版文化もここに至ってようやく形が整ったといえる。