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官幣大社札幌神社

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    札幌神社
毎年六月十五日ニハ、北海道ノ小学校、皆其業ヲ休ム、コレハ、札幌神社ノ祭日ナルガ故ナリ。/札幌神社ハ、札幌ノ西ノ方、マルヤマ村ニアリ、明治四年六月、コヽニ社ヲ建テヽ、オホクニダマノ神、オホナムチノ神、スクナビコナノ神ノ三神ヲマツリ、国幣小社ニ列セラレシガ、明治二十六年十一月、官幣中社ニノボセラレタリ。/此三柱ノ神ハ、我国開拓ノ神、毎年一度、大祭ヲ行ヒ、イハヒ奉ルナリ。/見ヨ、生徒ノ一タイハ、教師ノガウレイニ従ヒ、社前ニ進ミテ、拝礼ヲ行ハントス。/彼等ハ何処ノ生徒ナラン、コレハ札幌区内ノ生徒ナルベシ。

 これは、明治三十年四月から三十八年四月まで、北海道においてのみ、「内地」の教科書とは別立てで使われた『北海道用尋常小学読本』(全八巻)の一節である(竹ヶ原幸朗 北と南を結ぶ尋常小学読本)。三十二年に官幣大社となる札幌神社の六月十五日の祭日には、北海道中の小学校が休業となり、札幌区の小学生が社前に参るさまを伝える。日清・日露戦間期の小学校において、子供たちが暗唱し音読したであろう文章である。
 このように社会で大きな意味をもつ、札幌神社官幣大社への昇格の問題を考えてみたい。
 明治三十二年九月一日、官幣中社札幌神社(現北海道神宮)は官幣大社へと昇格する。この問題には二つの文脈がある。一つは、全国一六八社(明32現在)ある官国幣社のうち、北海道にある官国幣社は、わずかに官幣大社札幌神社と国幣中社函館八幡宮との二社だけであり、札幌神社は「北門ノ鎮護、開拓ノ守護神」たるべきとする、北海道の内的な要因である。
 その理由は、一〇年以上にわたって官幣大社への昇格を政府に働きかけ続けた、宮司の白野夏雲の「昇格願」(明30・9・29)に現れる。
本道拾壱国ノ地積ハ之ヲ上国八道ノ地積ニ対シ其三分ノ一ヲ占有致シナカラ、八道ノ官国幣社ハ一百六拾余社ノ多ニ居リ、中ニ大社三拾三社ヲ齋カセラレ候ニ、比較候ハヽ、他年本道ノ開拓其完成ノ日ニ至ラハ、上国ノ地積ニ対スル権衡上ニ於テモ必スヤ二三拾社ノ官国幣社アツテ少クモ四五ノ大社ヲ齋カセラルヘキハ、我御国体トシテ勿論ノ事ト奉存候、果シテ然ラハ本神社ハ本道最初ノ宗社皇国北門ノ鎮護開拓ノ守護神ナリ、先大社ニ列セラルヘキ本道ニ他社有之マシク、況ンヤ上国三拾二大社中保存金年額ノ如キモ本神社ニ超過スルノ年額ハ出雲大社ノ一社ニ止メ、熱田神宮ニシテ僅々三拾余円ヲ増スノミ

 「昇格願」では、開拓の進展、人口の増加、そして徴兵令の施行(明31)など内地との制度的平準化を受けて、全国の面積に比す北海道の広大さを鑑み、官国幣社の本州への偏在を主張する。表向きは、明治三十年の「官国幣社昇格内規」によると、昇格の基準である「朝廷ノ崇敬特ニ篤カリシ神社」によって官幣大社となったと説明される。