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新社殿の造営

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 官幣大社昇格後の札幌神社をめぐる大事業は、新社殿の造営である。明治三十六年十月の造営会主旨ならびに会則の制定により、造営計画は開始するが、日露戦争により一時中断、事業は明治四十一年以降本格化する(北海道神宮史 上巻、以下特に断わらない限り同書におうところが大きい)。この間の主張の一つとして、南の植民地神社としての官幣大社台湾神社が、三五万六〇〇〇余円の予算で建設されたのに対し、「これと南北相対する札幌神社がますます神威を宣揚する」ためとの阿久津真澄宮司の議論が興味深い(横森久美 台湾における神社、北海道神宮史 上巻)。もう一つには、官幣大社にふさわしい社殿を、という主張である。札幌神社造営会が記者を招待した際の、額賀大直宮司の演説では、
今日は官幣大社として北海全道の守護神社なるに反し境内の狭隘、社殿拝殿の規模は依然小社時代のものにて社格に伴はず殊に構造粗雑の為め既に神社扉は五六寸も傾斜して開閉自由ならざるのみか拝殿の如きは尺余も傾き且用材腐朽し雨露の凌きも困難を感するに至るの実況となる之れ敬神の趣旨に反するもの
(北タイ 明41・12・28)

と、疲弊した現況を訴えている。

写真-1 札幌神社社殿建築工事現場(明44頃。大工は烏帽子,白丁姿)

 明治四十二年二月、造営会の札幌委員会では全体で一二万円余の造営費のうち、札幌の責任負担額を祭典区に割り当てて集めようとする。また周辺諸村においても寄付は集められ、琴似村では戊申詔書捧読式の折、造営会が集めた寄金は、列席者三四人で一二〇余円にのぼった(北タイ 明43・1・28)。
 四十二年の伊勢神宮の遷宮に参列した額賀宮司の懇請により、伊勢神宮の古材が札幌神社に払い下げられることとなるが、四十三年段階で神社の建築様式をめぐって、興味深い報道がなされている。二月十二日の造営会評議員会の議論の中で、なるべく北海道の木材を使うべきとの方針と共に、「同神社は明治の御世に於て陛下の勅裁を賜はりたる新設神社なる所より、単に古代式のみに依らず神明式を基礎として各神社の長を採り更に明治の文明風をも合せ所謂明治式に建築するに決したる」とされ(北タイ 明43・2・15)、札幌神社の創建が新しいことから、伊勢神宮の神明式を基礎として新しく明治式の様式にすべきとの主張がおもしろい。
 四十三年十月一日には地鎮祭、十月七日には造営用材木曳式が行われるが、全部で一二区ある祭典区において、それぞれ区をあげての取組みがなされる。たとえば「第六区は木材を山車台に積み、鳶人足数十名揃ひの半纏にて手古舞、木遣り音同囃子にて曳き、委員五十余名は揃ひの紋附袴にて護衛する筈」(北タイ 明43・10・4)。かくして明治天皇の大葬をはさんで、大正二年十月五日には、内務省から井上友一神社局長や各祭典区の代表の参列の上で、正遷宮式が執り行われる。創成河畔には、木暮軽業・加藤女剣舞・松島のカンガルー角力・池野子供足芸・井原犬猿芝居などの見世物が立ち並んだ(小樽新聞 大2・10・5)。