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第一次世界大戦後のカトリックの活動

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 カトリック教会では前述(本節三)のとおり、北海道の布教を全面的にフランシスコ修道会に委ねる方針をとったことで、大正三年、パリ宣教会のラフォンヌらが札幌を引き上げた。翌四年、函館地方を除く全道と樺太を管轄する札幌知牧区が設置され、キノルドがローマ教皇庁から知牧区長に任命された。フランシスコ会は札幌の南北全域を一体として担当することとなり、札幌が名実ともに全道のカトリックの中心地となった。札幌知牧区は、樺太・千島を含む広大な地域に、信徒九三〇人が一〇の教会に散在し、各教会には司祭一人ずつの配置であった。しかも第一次世界大戦の勃発で、宣教師の布教旅行が制限されたこともあり、信徒の宗教教育や未信者への布教で、宣教師の活動を補う別の手段が必要となった。このためフランシスコ修道会は、週刊紙『光明』の発行を企画し、大正五年一月に創刊号を刊行した。内容は福音書やキリスト伝の講義、『公教要理』の解説、聖人伝、教理や生活上の質問及び回答、社会問題、家庭記事などであった。
 第一次世界大戦は、札幌知牧区を担うフランシスコ会に大きな影響を与えた。同会はドイツのフルダ管区に属しており、新たな宣教師の派遣や資金の流入が困難となった。特にドイツ人宣教師は敵国人として外出や旅行に制限を受けた。文通や物品の売買も制限されあるいは禁止された。戦争中の五カ年にわたる布教活動への影響は、受洗者数の推移にもその一端が見える。札幌(北一条)・札幌村両教会の受洗者数が大正四年には合わせて五〇人であったのが、五年には三六人に、六年には一九人に急落し、七年以降になって三〇人前後に回復した。そしてドイツ人への差別が撤廃された大正八年には、ようやく自由を回復したが、その時には活動資金が尽きていたという。
 しかしながらこの間、札幌では札幌天主公教会の会堂が完成し、五年十月八日に献堂祝別することができた。新会堂は、木造二階建切妻屋根の上に塔屋を載せたロマネスク風の三楼式の間取りであった。また翌六年、神社参拝問題の解決のために来日した教皇特使ペトレリー大司教が、五月に札幌をも訪れ、道庁長官を公式訪問することがあった。

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写真-11 札幌天主公教会(北1東6,大正5年建築)

 大戦後、かねて課題であった女子教育のため、キノルド知牧区長の要請でドイツの「殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会」の修道女三人が、大正九年に札幌に派遣された。この修道会は、北一七条西一丁目にマリア院を開設した。この修道院は入会志願者が訓練を受ける修練院を設けていたが、十二年八月、最初の着衣式(公けに修道服を授与する式)が行われた。この修道会によって、後に高等女学校の設立準備が進められることになる。
 大正十一年には、札幌村天主公教会(北十五条教会)が北一一条東二丁目に仮聖堂を建築した。十三年、札幌天主公教会(北一条教会)では初めての聖体行列(聖餐のパンを掲げて行う行進)が教会内で行われ、参集者に信仰の高揚を与えた。
 この頃、チモテオ・ルッペル司祭は信徒の再教育に力を注ぎ、教会から離れている信徒を次々と引き戻し、また『公教要理』による訓練を施していた。信徒の団体である同胞会も組織され、教会活動の充実が図られた。そのチモテオ司祭が十三年九月四日、山鼻の病気の信徒を訪ねる途中、落雷に打たれ三九歳の若さで急死した。チモテオ司祭の死は知牧区や教会の関係者に大きな衝撃を与えたが、札幌のカトリック教会の信徒数はこの頃から次の時代にかけて急速な伸びを示し、教会は市民のなかに広く浸透していくことになる。