中島公園内には札幌聯隊区内の戦死者を慰霊する忠魂碑があり、忠魂碑保存会、祭典区(敬神講)、札幌聯隊区、歩兵二五聯隊、在郷軍人会などによって毎年八月六日に忠魂祭が執行されてきていた。忠魂碑保存会では大正十年十二月一日に札幌招魂社の創立を出願し、十一年七月一日に許可となった。忠魂碑保存会は札幌招魂社崇敬会に改組されたが、その後、大正十五年五月に創立された札幌招魂社奉賛会(会長は札幌市長)へと引き継がれる。
札幌招魂社の創立後は忠魂碑前に仮設の拝殿を造り、十二年から八月十五日に忠魂祭が行われてきたが、中島公園内に所在していたために移転が必要であった。札幌招魂社奉賛会が中心となって敷地の選定、本殿の建立にあたってはいたが、不況などで建立は延引していた。昭和七年に南一四、一五条西四丁目の市有地内への移転が決定し、八年に至り総工費四万円で建設に着手された。四月二十六日の地鎮祭、八月三十日の上棟祭を経て、十一月十七日に竣工の神殿祭、遷座祭が行われ、例祭もこれに合わせて翌十八日に行われた(昭和九年以降は七月五日が例祭日となる)。
昭和九年六月には忠魂碑も移設され、六月二十五日に札幌招魂社維持委員会が創設されて「札幌招魂社ノ維持経営ニ関シ必要ナル事項ヲ評議スル」ようになる。同会委員の定数は歩兵二五聯隊長、札幌聯隊区司令官、石狩・空知・胆振・日高支庁長、札幌・室蘭市長(以上はまたは代理者)、各支庁管内の町村長(各一人、空知のみ二人)、札幌招魂社奉賛会役員(五人)、などの一八人で構成されていた(社寺関係書類 昭13)。
札幌招魂社では昭和十三年六月二十九日に神門玉垣、十二月三十日に神符授与所竣工の奉告祭が行われ、境内の整備も進められていく。そして十四年四月一日には札幌招魂社が札幌護国神社に改称となった。これは戦争の激化と戦死者の増加にともない、一県一社の招魂社設置を目的とした招魂社制度の制定によるものであり、北海道では特別に旭川、函館の二招魂社とともに護国神社と改称された。社格、供進使、幣帛料などは県社同様の扱いとなっており、札幌護国神社では四月二十三日に改称奉告祭が行われた。札幌市では皇紀二六〇〇年記念事業として十五年から三年計画で六万九九〇〇円の予算をもって施設・神苑の整備計画をたてた。十六年は、「前年ニ引続キ用地買収及地上物件ノ移転ヲ行フト共ニ直営ヲ以テ本殿裏地ノ埋立、其ノ他各種樹木ノ植栽竝ニ築庭工事ヲ施行シ予定通進捗シツツアリ」、十七年は「本年中ニ社務所移転ヲ了シ又造園、境内道路及土墻築造等鋭意工事ノ進捗ニ努メツツアリ」とされている(札幌市事務報告)。
日本軍が大陸進攻の展開を開始した十三年四月以降、毎月一日と十日が時局安定祈願祭とされていくように、札幌護国神社も国家安泰、戦争勝利を祈願する〝軍社〟としての役割を強めていく。この十三年を境にして合祀する英霊も増加していき、護国神社に昇格した十四年四月一日現在で二五九柱であったが、十五年七月五日現在で三七九柱に増え、そして終戦直前の二十年七月の例祭時には一八七一柱に達するようになっていた(その後二十四年現在の合祀数は四四六五柱)。