写真-4 三吉神社前(南1西8)を行く札幌祭の渡御風景
大正十三年の札幌祭は皇太子成婚を祝して「大奮発」で行われ(北タイ 大13・6・11)、「緑に、赤に、満街の空は電飾に遺憾なく札幌市は盛装された。お祭り気分も昨夜の宵宮を受け愈々高潮に達した。今日涼しいアカシヤの街は茲に再び花見以来の歓楽が繰返される」と(北タイ 大13・6・15)、「お祭り気分」が「高潮」した中で行われていた。この年の各祭典区の山車をみると第一-日本武尊、第二-加藤清正、第三-伊弉冊尊、第六-大国主命、第七-明治天皇、第九-猿田彦命、第十-村上義光、第十一-唐子人形であった(他区はなし。北タイ 大13・6・11)。
御輿渡御の先頭をつとめ現在も名物となっている、維新勤王隊が登場するのは十五年からである。十三年七月に就任した札幌神社宮司高階研一の発案になるものであり、彼は祭典区代表委員とともに十四年十月十八日から十一月四日まで京都へ視察におもむき、その折に平安神宮の時代祭にて維新勤王隊を実見し、導入の契機になったという(北海道神宮維新勤王隊七十年誌)。こうして十五年度の祭典予算に一万二四〇〇円の特別予算が組まれ、維新勤王隊の導入が進められていった。軽やかな祭気分を誘う鼓笛の音、威風堂々たる隊列が沿道の市民に好評を博し、やがて御輿渡御には欠かせない呼び物になって定着していくのであった。
そもそも、維新勤王隊の元々の起こりは「山国隊」にあり、京都府山国村の青年が「山国隊」として因幡藩隊に属して東征に参加していた。江戸に入った彼らはフランス式の軍事訓練と軍楽を受け、フランス軍服に「魁」の文字と能毛をつけた陣笠の姿で日光まで出陣していた。その後、江戸より京都まで「錦旗」警衛の任務を受け、明治二年二月に鼓笛を奏して山国村に凱旋した故事に由来していた。