円山には、大正三年に弘法大師(空海)が四国八十八ヶ所を開場して一一〇〇年になるというので、それを記念して成田山新栄寺及び藻岩村の上田万平、善七などが中心となって円山八十八ヶ所が開かれた。八十八ヶ所は「四国札所の土を取り寄せ」「各尊体一仏毎に台石の下へ土を踏ましめて普く結縁せしめん」としたものであり(北タイ 大3・5・6)、山麓には大師堂、山頂には大日如来を安置した奥の院を設けていた。円山八十八ヶ所の開眼式は五月九日に行われ、維持管理には成田山の大師報徳講があたるようになった。大正期には簾舞の二星岱公園にも新西国三十三観世音が設置され、大正六年五月三十日に入仏式を行っている。
昭和期に入り、豊平町の月寒公園に西国三十三番、四国八十八ヶ所が創設となり、六年六月四日に開眼式が行われている。高野山弘法寺や檀家の碓井太七、泉屋初三郎などの発起となり、三三基の石灯籠の四面に一三二体の観音が刻まれていた。中の島では大正十五年に住宅地造成を行い、この地の発達の先鞭をつけた河合才一郎の発願により、精進川沿い道路(現平岸一条)に観音通を開設し、西国三十三番観音、子安観音、子持地蔵、六地蔵の四一体が安置され、十年十月八日に開眼式が行われた。六地蔵と一番は平岸一条七丁目、三三番は一七丁目に所在し、観音講の信者により五月と十月の十七日に例祭が執行されていた。昭和五十年十月に一七丁目に合祀され、平岸・中の島三十三番観世音菩薩と呼ばれるようになった(平岸百拾年)。