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天理教

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 天理教西村弥三吉札幌での布教を開始し、明治二十四年六月十二日に講を結成し、二十七年十二月七日に豊岡大教会の天理教札幌出張所を設置していた(ここでの設置日は教団の許可日を使用)。彼が三十年頃に離札した後は、同所は衰微に向かい三十六年十一月に建物が売却されており廃止となったようである。
 その一方で三十年代半ば頃より札幌での天理教布教は勢いを増すようになっていく。まず敷島大教会文谷みなが三十二年から手稲、琴似、札幌で布教活動を行い、豊平町に三十四年七月三日に北道布教所が設立されることになり、信者も一二〇戸を数えるようになったというが(敷島大教会史 直属教会編)、その後、文谷みな札幌を離れたことにより彼女の信者は三十七年四月十日に設立となった北明布教所(南6西4)に引き継がれる。次に、南海大教会系の雨龍分教会では三十四年から札幌での教勢拡大をめざしていたが、小野富次郎は篠路村にて三三戸の信者を得て篠路講社を組織していた(大13・12・1篠路宣教所を設置)。さらに後述の山本角蔵中辻与作も活動を開始していた。
 天理教は四十年代に入ると、四十一年十一月に神道本局から分離して天理教の一派独立が認可されたこともあって(これにより布教所を宣教所と改称)、札幌での進出と教勢の拡大がめざましくなった。敷島大教会山本長蔵は、所長であった函館出張所が認可取消にあい、再起をかけて札幌への進出をはたすようになる。四十年十二月二十日に敷島分教会北海出張所(北5西14)の設立認可を受け、四十二年二月十八日に敷島大教会北海支教会と改称し、四十三年の信徒数は四三二戸、一三五三人とされるほど、短期の間に市内でも屈指の大きな教会に伸張していった。ここでは四十三年四月から一カ月間にわたり講習会、四月十五日に神殿落成奉告祭、五月に戊申詔書講演会などが行われており活動も活発であった。
 高安大教会の山本角蔵は当初、日高で布教活動を行っていたが、三十五年八月より札幌へ転身し、三十八年九月に布教所(北1東3)を設置し、四十一年十一月二十二日に統北宣教所を設置した。大正二年に北一条東四丁目に移転し、その後建物の焼失もあったが下部の宣教所を増やして教勢を拡大し、大正十四年十月二十三日に支教会へ昇格している。
 四十年代には札幌区内に水口大教会の北都宣教所(明40・9、北8東2)、中河大教会の北養宣教所(明42・3・3、南4西6)なども相次いで設置されていたが、周辺の諸町村にも続々と設置をみていた。南海大教会の豊平宣教所は、上原清五郎が四十年一月に札幌中学を退学して布教の道に入り、四十四年五月四日に開いたものであった(天理教雨龍大教会史 部内編)。中和大教会の北星宣教所を開く中辻与作は、三十五年四月に来札して布教を始め、「癩病患者のおたすけに専念された人」であったというが、翌三十六年四月に札幌村に集談所を設け、四十三年二月二日に北星宣教所を設置するようになる(以上の伝道史については高野文治『天理教伝道史―北海道篇―』参照)。他にも、白豊(白石村、明42・3・7設立)、藻岩(明45・7・30)、手稲(明44・5・13)、琴似(明44・5・13)の各宣教所が設立されていた。