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人口の増加

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 札幌市及び周囲の町村を合わせた現札幌市域の人口は、本時代に順調に増加したといえる(図1参照)。札幌市についてみると、区制期末から本時代の初め(昭和元年まで)にかけてまず大きな増加をみた。特に大正十年は一三パーセント、十一年は九パーセントの増加率を示し、その後の住民構成に深くかかわっていく。この間の自然増(出生と死亡数の差)は年間二五〇〇~二六〇〇人であるから、一万人にのぼる増加の四分の三は社会増によってもたらされた。

図-1 人口の推移

 境界変更による特殊な増加を除くと、昭和五年から十年前後にかけて、二度目の増加期を迎えたが、数も率も前回の上昇の約半分とみてよい。昭和六年を例にすると、四八七六人、二・八九パーセントの増加である。うち自然増が約二七〇〇人だから、社会増の割合は大正末期よりはるかに少なくなっていることがわかる。国勢調査年に人口が急増したように見えるが、これは調査方法の違いからくる見かけのことで、その前後と合わせて考察する必要があろう。境界変更年(昭9、16)も市内の人口が急増したかのように見えるが、その分周囲の町村人口が減少するから、現市域に換算した推移とからめて見なければならない。
 そうした特殊な増加を除くと、昭和十二年からは微増停滞期に入り、十三、十四、十九、二十の四年は減少する結果となった。特に日中戦争時の十三年と太平洋戦争時の十九年に顕著で、その原因は男性の多くが兵役法により召集動員されたからである。したがって昭和十年、札幌市の人口統計史上初めて男性より女性が多くなり、以後この現象は二十七年まで続いた。昭和十年女性一〇〇人に対し男性九九・八人の比となり、十八年には九〇・二、十九年はついに八七・四まで性比が低下、明治期には思いもよらぬことである。総人口は減少しているものの、十九年から戦災疎開者が札幌に転住してきた。十九年だけで一一七二人にのぼり、東京からの九四一人が最も多く、神奈川、大阪がこれに次ぎ、兵庫、愛知、福岡、山口等からも来た。
 昭和二十一年から人口はまた増加に転じるから、戦争という非常時の条件を除くと札幌市の人口はおおむね順調に増加してきたと言えよう。現市域の中で市が占めた人口の割合は七五パーセント前後とほぼ安定していた。区制期は六五パーセント前後であったから、この時代に市内への集中傾向が強まったことになる。一戸当りの家族数は市制施行の年(大11)五・五四人だったのが年々減少し、昭和四年五・〇四人となった。その後やや増加をみるが八年からまた減少し、十一年にはついに五人を割り込み、一戸当り四・八七人と少なくなった。十九年四・〇五人、二十年四・八〇人である。
 一平方キロメートル当りの人口密度は市制施行時五・二六人だったが、その後逐年増大し、九年札幌村と境界変更し市域を広げたが七人前後で推移した。人口密度を急に下げたのは十六年の円山町合併で、この年二・九三人となり、二十年は二・八九人であった。
 こうした札幌の人口推移を函館、小樽両市と比較したのが表1である。数だけでみると、区制期に札幌は小樽を上回り、市制となって函館を上回ったことになる。札幌の増加数は約九万人、函館四万四〇〇〇人、小樽二万九〇〇〇人であり、札幌は函館の増加数の二倍以上の人口を吸収したことになる。全道の増加の割合が一・三六倍なのに函館小樽はこれを下回り、札幌及び現札幌市域は上回った。人口増加に限って三市を比較すれば、札幌の優位はこの時代に決定づけられたとみてよい。ほぼ同年月だった区制期と対照すれば(市史第三巻五頁)、三市とも伸び率は低下し、特に札幌市の伸びが縮まった。人口推移の要因と影響については本巻第三章一節、七章一節を参照されたい。
表-1 三市の現住人口増加比較
      年
 市
大正12年
(A)
昭和19年
(B)
増加数
(B-A)
増加比
(B/A)
札幌135,459人225,842人90,383人1.67倍
函館市152,383 196,680 44,297 1.29 
小樽市123,091 151,905 28,814 1.23 
全道2,401,056 3,263,269 862,213 1.36 
札幌市域179,044 291,179 112,135 1.63