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橋本正治

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 橋本正治(一八七三―一九五六)が二代目の市長に就任したが、前市長の場合と同様に、地元派と移入派の対立は深刻で、普選後の市制への関心が市民に広まり、市長銓衡問題が市会にとどまらず市民運動として展開したところに、前回にみられなかった特徴がある。
 市会議員協議会で選出された銓衡委員は、「先づ以て地元より候補者を物色するを第一義となし」、松田学の名が出たが「大勢之を容るゝに至らず……種々の事情は地元の人物より挙げんこと容易ならずとの見地より、所謂地元説を打切り」、「大勢は輸入」に傾き(樽新 昭2・8・9)、道庁部長経験者より財部実秀(島根県知事)、橋本正治が候補にあがり、議員協議会は橋本に就任の意向を打診することにした。
 これに対し、地元派議員とその支持者による市民大会が、昭和二年九月「十八日午後六時から札幌市内新善光寺に於て開催された。流石に市民の心裡を熱騰せしめて居る重大事件として、定刻前より公民の来集三千余名と註せられ、入場し得ざる者は場外に佇立するの盛況」(北タイ 昭2・9・19)を呈し、市長移入を排し一路建国公道の発揚を宣言し、市会議員は市住民より適材を銓衡すべしと決議した。第二回市政革正札幌市民大会では、要求事項に市役所職員の公金不正支出問題がからんで、警察による参加者の検束事件に発展、第三回大会では橋本への反対打電、「場合に依っては橋本氏を津軽海峡より渡さぬ」ための対策まで話題になった(北タイ 昭2・12・5)。
 市会における二代目市長選出の選挙は十二月十八日行われ、橋本二一票、関場不二彦三票(他に白票など八)であったが、市役所周囲を市民が取り囲み選挙結果を見守る中、議場は反対派議員の発言要求や傍聴席の怒号で騒然とし、警察官が出動し検束者を出す混乱となった。橋本は翌三年一月十三日札幌に赴任したが、札幌駅に多数の市民が出迎える一方で、〝反橋本市長デー〟の催しが開かれたりした。
 橋本は高岡がレールを敷いた都市基盤整備計画を実現すべく、不況下にあって堅実周到な方策をもって最大限の努力を払った。特に上水道事業の完成は橋本の力によるところが大で、主要道路の舗装をすすめ、その上に市営交通事業の整備を重ね都市交通網をつくり上げた。こうした実績があったから、任期満了を目前にして一部議員が提出した市長不信任決議案は否決され、再選されたあと、二期目を終えるにあたり勇退を決意したが、周囲の強い三選希望と事業の中断による市政の不利を考慮し、水道事業と新庁舎建築の目途を任期とする条件で三選に応じ、それらの見通しがついた十二年四月二十六日、市会で辞意を正式表明した。
 橋本は福井県の生まれで、東京大学卒業後内務省に入り、道庁で勧業、土木、内務の三部長をつとめ、のち鹿児島県、山口県の二知事を歴任し、大正十四年六月から昭和二年三月まで呉市長であった。札幌市長在任期は実に九年五カ月に及び、戦前期の区市長を通して、最も長期にわたってその職にあり、札幌市の近代的都市づくりは、橋本によって定まったと言われる。昭和三十一年名誉市民に選ばれたが、この年十月東京で死去した。