三沢寛一(一八八二―一九六八)が第三代目の市長となるが、その就任もまた紆余曲折を経た結果である。橋本市長の辞意は早い時期に市会議長に伝えられたから、その在職中に後任市長を決定し、円満引継となるよう、今回こそは「地元市長を理想として」(樽新 昭12・5・5)銓衡委員会が設けられた。移入市長が当初話題にならなかったのは、前回の激しい対立の反省のみならず、橋本市政期に大型事業の懸案がほぼ解決し、今後は内容充実と生活への定着が課題であり、それには市民の中から市長を選ぶべきであるとの考えで市会は一致していたからである。銓衡委員会では市会議長村田不二三を次期市長に満場一致で推薦したから、これで市長問題は決したかにみえた。ところが村田は高齢で病弱であること、躍進時代を生み出す手腕力量を欠くと自称して、どうしても推薦を受諾しなかった。やむなく、市会副議長本間久三、北大総長高岡熊雄に意向を打診したが、いずれも固辞し、市長銓衡は暗礁に乗り上げてしまい、橋本市長退任の日を迎えたのである。
事態の収拾を協議した結果、移入市長よりほかに解決の道はないと判断し、大西一郎(前横浜市長)、岡正雄(元警保局長)、井野次郎(元宮城県知事)、財部実秀(元千葉市長)、県忍(元大阪府知事)、三沢寛一を候補とし、個別に委員が折衝し、市長就任の意志を確かめたところ、三沢の受諾となった。そこで昭和十二年七月十五日市会を開き、三代目市長に選出したのである。
その任期は十六年七月十六日までだったが、この年六月二十二日まで開かれていた第五回市会では、まったく市長の退任ないし再選について話し合われることがなかった。すなわち、任期切れによる自然退職を待つ空気が市会で支配的だったといえよう。市長を地元からとの意見が根強く、高岡熊雄、伊沢広曹(市助役)、高田富与(市議、弁護士)を推す人たちがいた。また、市長就任の年から日中戦争が始まり、翌年国家総動員法ができ、総力戦へ進む中で市長権限は強化され市会の機能低下をもたらし、国家統制により市政は硬直化の一途をたどっていたから、市会の中で三沢市長を支持する勢力は強くなかった。
そうした中から再選を支持する一部議員が市長選挙のための市会招集を要求し、議員間を回って連判状への署名を求めるに及んで、再選とそれに反対する議論が一挙に沸騰した。両派の対立は収拾されぬまま、七月三日市会が招集され、休憩協議において市長再選の可否をめぐる予選投票をまず行い、その結果にもとづき本会議で選挙することになり、結局三沢市長の再任が決定し、二期目の任期満了まで、満八年間の在任となったのである。
三沢は長野県で生まれ、京都大学卒業後文部省に入り、北大(農科大当時)に勤務したことがある。のち山形県知事、名古屋市助役、島根県知事を歴任したのち、非常時戦時下の札幌市政を担当し、退任後は仙台市に居を移した。