すなわち第一の目的は、人口増に伴う都会生活の複雑化、稀薄化、冷淡化、個人主義化を匡正救治するため、隣保相親和し相扶助し自治生活の基礎を固め、民生福祉の増進を図るための自治機関と位置づけた。
第二の目的として「国家又は地方自治体に繫属して、行政目的の達成に活用せらるゝ所の、否進んで其の活動に参加する所の行政機関」であるとした。その機能を十分発揮させるため系統的、組織的、統一的なものとし、「国民精神総動員の実践を徹底せしめ、各種経済国策の遂行を完からしめ、国民経済生活の安定を保持」しようというのである。
公区の事業として、公区規約準則は次の概目をあげている。
一 市役所ヨリ委託セラレタル事務ノ処理
二 国民精神総動員ノ実践
三 経済其ノ他国策ニ対スル協力実践
四 公益ニ関スル意見ノ具申
五 特殊公益団体ニ対スル協力
六 各種ノ統計調査
七 其ノ他公区ノ目的達成上必要ナル事項
二 国民精神総動員ノ実践
三 経済其ノ他国策ニ対スル協力実践
四 公益ニ関スル意見ノ具申
五 特殊公益団体ニ対スル協力
六 各種ノ統計調査
七 其ノ他公区ノ目的達成上必要ナル事項
これをみると、公区の目的は第二の市役所の末端機関として国策を下達することに主眼があり、第一に掲げた隣保相親和相扶助は、裏をかえすと隣組による相互監視、連帯規制で、第二の目的を完遂するための方策であった。公区発足とともに行われたのが砂糖の配給で、続いて木炭、石炭、米が配給になり、五月からは切符制の配給も公区の大きな仕事となった。それら市民生活との直接の関わりは第七章四節で触れている。
公区の組織は、まず全市域を一〇〇ないし二〇〇戸を標準に地形を考慮しながら三一一に区分し、それぞれに名称をつけ、札幌市の基礎的細胞的自治団体とした。公区内の世帯主と法人はすべて公区員となることを義務づけ、その経費を負担しなければならない。無報酬名誉職の公区長、副長、幹事を置き、市長が任命解任することとし、公区は市長の監督を受けるものとされた。公区の協議機関として公区員による年一度の総会(一月)と随時開催する常会を設け、公区内を班(隣保班)に分け、のちに班内をさらに組に分けたところもある。いわゆる隣組である。班には班長を置き、公区員の異動管理にあたった。
二〇ほどの公区を集めて一六の聯合公区が組織され、市役所からの通知等はすべて聯合公区を通してなされた。これがほぼ札幌神社の祭典区分にあたるが、一部で合致しない区域もある。聯合公区長、副長、幹事を定め、公区長と副長をもって代議員会を設け、経費は各公区の負担とした。市長の監督下にあることは公区同様である。
このようにして創設時に設置された公区聯合公区の概要は表12であるが、以後の変遷は次の通りである。聯合公区の新増設では、昭和十六年四月の円山町合併に伴い、円山(一二公区)、藻岩(六公区)が増え、十七年四月鉄北西部を分割し幌北聯合公区が生まれ、一九聯合公区(以下聯区と略)となって制度の廃止まで続いた。
表-12 公区・聯合公区一覧 |
聯合公区名 | 事務所所在地 | 聯合公区長 | 公区数 | 班数 | 世帯数 |
山鼻南部 | 南17条西9丁目 | 伊澤富之助 | 21 | 126 | 2,377 |
山鼻北部 | 南11条西12丁目 | 伊藤丑之助 | 26 | 185 | 3,595 |
西部 | 南6西12中井助次郎方 | 佐藤善兵衛 | 20 | 125 | 3,086 |
西創成 | 南5条西8丁目 | 浅野一夫 | 16 | 106 | 2,814 |
豊水 | 南7条西1丁目 | 伊坂重馬 | 15 | 83 | 2,342 |
東 | 南3条東2丁目 | 本間長助 | 17 | 106 | 2,730 |
本府 | 南1条西1丁目 | 高桑達雄 | 14 | 76 | 1,740 |
中部西 | 南2条西13丁目 | 笹沼孝蔵 | 14 | 74 | 1,740 |
桑園 | 北1条西19丁目 | 田中重兵衛 | 28 | 156 | 2,911 |
中央 | 北3条西2丁目 | 小笠原楠弥 | 8 | 52 | 1,176 |
東北 | 北1条東2丁目 | 塚島由太郎 | 13 | 79 | 1,985 |
鉄北西部 | 北11条西1丁目 | 前田幸吉 | 31 | 140 | 3,727 |
鉄北東部 | 北11条東3丁目 | 三浦才三 | 30 | 210 | 3,547 |
苗穂 | 北2東10苗穂公会堂 | 山口保三郎 | 24 | 133 | 2,991 |
白石 | 白石5条1丁目 | 斎藤義太郎 | 15 | 119 | 2,222 |
豊平 | 豊平3条5丁目三石方 | 福島利雄 | 19 | 132 | 3,024 |
計 | 16 | 311 | 1,966 | 42,007 |
『札幌市事務報告』(昭15)より作成。 |
聯区内の変更はたびたび行われ、十六年九月中部西聯区の第一公区を分割し第一六公区を設け、十七年十月桑園聯区の第二八公区から二九~三一公区を分離し、同年十二月山鼻南部聯区のうち第一〇と第一八公区の地域変更、十八年五月藻岩聯区内全公区の地域再指定、十九年二月桑園・中央両聯区の地域変更と桑園・中央・円山・鉄北東部・幌北・西創成聯区内の公区変更、同年三月にその修正、同三月豊水・鉄北西部・山鼻北部・山鼻南部・東北・豊平各聯区の公区変更、同月東・白石・苗穂各聯区の公区変更、同年四月中部西、西部、本府各聯区の公区変更を行った。十九年に公区変更が相次いだのは、一公区二〇〇世帯を標準とする再配置によるためで、二〇〇世帯を大きく越える公区を分割し、一〇〇世帯以下を併合したのである。
これによって札幌の公区は五五を減じて二七七となり、一九聯区により太平洋戦争の終結を迎えるが、戦後三公区が増えたため、制度の廃止される昭和二十二年三月の時点では二八〇公区、一九聯合公区であった。