会員相互の交誼を厚ふし、札幌区に起る総ての公共問題は中正不偏に之を解決し努めて一〔十カ〕区の発展を図り、且会員中天災若くは疾病其他の不幸あるときは之を慰め之を弔するは勿論、会員以外と雖とも世の認めて不幸者となすものに対しては、出来得る限りの至情を表する……
とされている(発会時、初見時の史料・出典は表21参照)。これによると、会員の交誼、公共問題の解決と区の発展、相互扶助などが目的とされていた。中正会では毎月、月次会を開催していたが、明治三十九年九月の例会では復員帰郷兵の見送り、歩兵第二五聯隊出征紀念碑建設、会員分の提灯作製の件などが議されている(北タイ 明39・3・17)。日露戦争中は献金、入退隊兵の送迎、戦死者の公葬、出征家族・戦没者遺族の慰問などで地区を単位とした活動、動員がさかんに行われていた。これらをもとに戦後、地区・住民活動の核となる中心母体として中正会も創設されたとみられる。中正会の活動は大正八年にも知られ、会員は九〇余人、会頭は大竹敬助であった(北タイ 大8・2・20)。
この頃に組織されたものとしては、他に東方和合会がある。同会は創成川以東の祭典第七区を地区とし、初見は明治四十五年であるが、「古くより……一勢力を形造り区政其他に付きて常に東方活動の中心」となっていたという。日露戦争が開戦となった明治三十八年二月に創成川以東各町の婦人たちにより、出征軍人遺家族救護の目的で東方婦人講が創設されたが、既設の東方和合会から「東方」の名称がとられたものではないかと推測され、東方和合会そのものもこれ以前の創設かと思われる。同会は昭和三年一月に総会が開かれた記事もあり(北タイ 昭3・1・31)、永く存続して活動した組織であった。
以上の両会はおそらく当初は、区会議員の選挙権などをもつ商業者有志の祭典区を基盤とした地区組織であって、広く地区住民を会員とする住民組織ではなかったようにみられる。しかし、東方和合会もやがて町内会的な組織に性格を変えていったようである。