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太平洋戦争

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 中国との戦争に解決の糸口がみられぬ中、日本軍の南部仏印進駐に対抗して、アメリカは在米日本資産の凍結、対日石油輸出全面停止の処置をとった。民間レベルや政府間の日米交渉は結局合意に達せず、昭和十六年十一月二十六日、アメリカ国務長官は日本軍の中国撤退を要求する最後通牒を突き付けてきた。これを受けて東条内閣は十二月一日アメリカとの開戦を正式に決定、十二月八日日本海軍はハワイ真珠湾を奇襲、陸軍はイギリス領マレー半島に上陸し、米英とも戦闘状態に入った。太平洋戦争の始まりである。
 これに動員された兵力は開戦の時点で二四〇万人、敗戦時は七二〇万人にのぼったといわれている。そのため昭和十七年二月、十八年三月、同年十一月、二十年二月と相次いで兵役法を改正し、ひたすら兵員補充にあたり、学徒動貝、朝鮮台湾からも徴兵することとし、さらに六月には義勇兵役法ができて男子一五歳から六〇歳、女子一七歳から四〇歳までが服役期間とされ、国家総動員法に基づく徴用と義勇召集が重複し、まさに国民を総動員する総力戦体制が敷かれた。十八年の全国現役徴集数は陸海軍合わせて四一万人だったが、十九年にはなんと一一三万人にのぼった。しかしこれでも兵員を充足することができず、予備、後備役の召集を強化し、十六年六三万、十八年九六万、そして二十年には一一五万人が召集されたのである(地方自治百年史 一)。
 徴集召集された札幌市の出身者の多くは旭川市と豊平町月寒の兵舎に入営し、そこで部隊を編成し戦地へ派遣された。行先は満州はもとより徐州戦、張古峰事件、ノモンハン事件、樺太・千島の防衛、そしてアリューシャン列島キスカ、アッツ進攻、ミッドウェー作戦等多方面にわたったので、多くの戦病死者を出した。札幌市事務報告(昭18)は、この年の兵事業務を次のように述べている。
(一)三月十八日、札幌陸軍病院ヲ、三月十九日同定山渓臨時転地療養所ヲ訪問シ、傷病兵ニ対シ慰安演芸ヲ催シ、慰問品ヲ贈呈シタリ。
(二)六月六日、〇〇〇ニ於テ札幌駐屯部隊将兵ニ対シ慰安演芸ヲ催シ、慰問品ヲ贈呈シタリ。
(三)九月二十八日、アッツ島玉砕勇士山崎部隊長以下ノ英霊ハ、月寒北部軍司令部出発中島公園祭場ニ奉移セラルルニ当リ、各学校、国体、一般市民沿道ニ堵列シ敬弔ノ誠ヲ捧ゲタリ。
(四)九月二十九日、中島公園祭場ニ於テ北部軍主催ヲ以テ、アッツ島玉砕勇士故山崎中将以下二千五百五十三柱ノ慰霊祭ヲ執行セラル。市長ハ全国関係市町村長ヲ代表シ弔詞ヲ奉呈シタリ。
(五)十一月三日、当市在住ノ元屯田兵生存者石黒鎌吉以下十八名ニ対シ、道庁長官ノ感謝状ヲ伝達シタリ。
(六)十一月二十七日ヨリ十二月七日迄ノ期間ヲ以テ、出征軍人遺家族等慰安ノタメ、映画観覧ノ招待券ヲ贈呈シタリ。
(七)本年中ノ当市出身大東亜戦争戦没者故陸軍少佐宮崎武助以下〇〇〇柱ノ英霊ヲ迎へ〇〇回ニ亙リ合同葬儀ヲ執行シ、敬弔ノ誠ヲ捧ゲタリ。
(八)本年中、故宮崎大佐遺族宮崎テル子以下〇〇〇名ニ対シ、皇后陛下御下賜品ヲ伝達シタリ。
(九)支那事変ニ参加シ、赫々タル武勲ヲ樹テ帰還シタル陸軍大佐小関義男以下千二百七十九名ニ対シ、六回ニ亙リ勲章ヲ伝達シタリ。
(一〇)本年中、札幌駅ヲ通過帰還シタル戦没者ノ英霊〇〇〇〇柱ニ対シ、其ノ都度団体、僧侶ヲ出場セシメ読経ヲナシ供物ヲ贈呈シ、敬弔ノ誠ヲ捧ゲタリ。
(一一)本年中、札幌駅下車並ニ通過帰還シタル傷病兵〇〇〇名ニ対シ、其ノ都度団体、国民学校児童ヲ出場セシメ、慰問品ヲ贈呈シ感謝ノ意ヲ表シタリ。

 太平洋戦争は昭和二十年(一九四五)、日本の無条件降伏によって終結したが、市民の犠牲は大きかった。この戦争の悲劇として沖縄戦、東京空襲、広島長崎の原爆等が語り継がれているが、北辺の犠牲も忘れてはならない。開戦のとき、ハワイ真珠湾を奇襲した海軍艦隊は、千島列島択捉島の単冠湾を基地として出航し、その結果はいわゆるアッツ島玉砕につながった。また敗戦直前にソ連が参戦し、無条件降伏後もなお攻撃を続け、千島、樺太で多くの犠牲を生み出し、今日に領土問題、未帰還者問題を未解決のまま残すことになり、改めて陸軍特別大演習の軍事的意義が問われるのである。