石狩川の右岸を通じる鉄道敷設については、明治三十七年頃から起こっていたという。当初は新十津川村などに産出する石炭輸送のために、新十津川村から石狩町経由の鉄道敷設計画が起こった(北海道鉄道百年史 中)。四十五年石狩右岸関係八カ町村で「石狩川右岸鉄道速成同盟会」が組織され(同前、北タイ 大2・1・21では石狩川右岸鉄道敷設期成同盟会)、大正二年には鉄道敷設の請願・陳情を行った。この時の路線は沼田から石狩川の右岸を通り石狩町を経由して銭函へ通じるものであった(北タイ 大2・1・21、2・6、6・12)。
七年になると鉄道速成期成同盟会の会長が岩村八作にかわり、札幌区との交渉の中で銭函への接続から札幌区に変更することになった。そして同会長と阿部札幌区長が鉄道管理局に赴いて陳情するなど(北タイ 大7・1・11)、新たな陳情活動が展開された(北タイ 大7・2・28)。十一月末には俵道庁長官へ陳情したが、この時の陳情の路線は、北竜村の留萌線沼田駅から新十津川・浦臼・月形・当別を経て、石狩川を渡り札幌村を抜けて札幌駅にいたる路線であった(北タイ 大7・12・5)。
このような石狩川右岸鉄道の速成運動は、民営敷設に切り替えた時期もある(たとえば北タイ 大8・12・18、9・6・12、13)が、鉄道敷設法が改正され、予定路線網が明確になると、再び速成運動がさかんになった(北タイ 大10・6・2)。会長が代議士の東武にかわり、石狩川右岸鉄道期成同盟会の名称も札沼線速成同盟会に変更し、貴衆両院への請願・建議運動を展開することになった(北タイ 大10・10・25、11・7・4)。その活動の効あってか、十二月には十二年度予算への計上が閣議を通過し(北タイ 大11・12・22)、鉄道会議も通過して、十二年度以降の年度割りも決定した(北タイ 大11・12・27)。しかし関東大震災の影響や、十三年六月成立した加藤高明護憲三派内閣の緊縮財政政策により、着工は遅れた(北タイ 大13・9・28など)。そのため速成運動は継続して行われたが(たとえば北タイ 大14・1・26など)、十四年十二月第五一回帝国議会で事業費六五一万円、八カ年継続事業として決定され(北海道鉄道百年史 中)、十五年度からの着工がやっと決定したと報道された(北タイ 大14・12・26)。
最終的にいつルートが決定したか不明であるが、函館線との分岐点を桑園と決定したのは昭和二年十二月である(北タイ 昭2・12・25)。測量は桑園口と沼田口から始められ、工事は昭和二年沼田口から着工され、浦臼までの区間は八年十一月竣工した。札幌側の桑園口からの着工は昭和四年七月で、浦臼までの区間は十年六月竣工した。札沼線は工事の進行により部分開業し、石狩沼田~浦臼間は札沼北線、桑園~石狩当別間は札沼南線と称し、十年十月の全線開通と同時に札沼線と改称した。
その後太平洋戦争の状況の悪化により、鉄道資材不足からレールの軍事目的転用のため、十八年十月石狩月形~石狩追分間、十九年七月石狩当別~石狩月形間と石狩追分~石狩沼田間のレールを撤去した(北海道鉄道百年史 中)。