表-15 魚市場の経営 (大11.1) |
資産(負債)合計 | 市場権 | 営業用建物 | 仲買人勘定 | 銀行預金 | 資本金 | 荷主勘定 | 仲買人保証金 | 借入金 | 支払手形 | 当期利益金 | |
魚菜市場 | 26,913 | 1,800 | 2,972 | 16,583 | 0 | 4,000 | 1,446 | 3,595 | 11,921 | 2,130 | |
札幌魚市場 | 103,156 | 47,500 | 2,136 | 39,200 | 4,080 | 62,000 | 4,493 | 9,141 | 0 | 11,000 | 3,321 |
1.資産(負債)合計にはその他を含む。 2.借入金には銀行借越金を含む。 3.『北タイ』(大11.2.4)より作成。 |
札幌魚市場の社長・中西八百吉は、石炭・石材商を経て大正二年七月に就任したが、他に定山渓鉄道取締役、北海採炭常務取締役、札幌区会議員などを務める実業家であった(札幌市役所 中西八百吉身分調書)。
このころ、魚市場に出入りする仲買人のなかでは、結束の機運が高まり、大正八年には札幌魚商仲買組合が結成され、初代組合長に市会議員(政友会)であり弁護士の木下三四彦が就任した。仲買人側で中心となったのは、安田長次郎、前田厳らであった(札幌水産物商九十五年)。さらには、十三年十月七日全道魚菜仲買協会が発足し、札幌からは創立委員として、木下三四彦、井上由蔵、今井清太郎、安田長次郎らが名を連ね、木下は会長に選出された。同協会は、十二年八月に公布された市場規則(庁令第一二六号)が、仲買人の意見を無視して定められたことを不満とし、仲買人の払う保証金、仲買人への歩戻金を、全道一律から各市場の任意へと変更することなどを建議した(北タイ 大13・10・7、10・8)。一方、市場に集まる水産物商のなかの青年層は、大正九年、鱗光倶楽部という親睦団体をつくり、野球、弁論、花見などの活動を開始していたという(札幌水産物商九十五年)。
このほか、下総要蔵が経営する魚印市場(開業社)があったが、資金難から十二年に助川貞次郎に譲渡したという。ところが助川はこれを、株式会社札幌第一魚市場に改組する際、札幌魚商仲買組合との間に、将来市場を魚商たちに任せること、重役を同組合から三人出すことを約束していたが、それを反古にして、札幌魚市場の中西八百吉と合同話を進めていった(北タイ 大14・4・7)。魚商仲買組合は、両市場合同に対する反対運動を繰り広げることになるが、その中心は鱗光倶楽部に集まる青年層であった。しかし、組合と助川の交渉の結果、合同後の株のうち三五〇株を魚商仲買組合が持つこと、組合から取締役二人、監査役一人を出すことを条件として市場合同が合意された(札幌水産物商九十五年)。このような経過で札幌魚市場と札幌第一魚市場は合同し、新会社札幌市場株式会社(資本金一六万円)が設立された(北タイ 昭2・3・17)。社長は中西ではなく、助川が就任し、仲買人から北川栄松が取締役に、井上由蔵、佐藤栄治が監査役に入っている(札幌商業会議所月報第五八号)。魚商仲買組合を抱き込んだ助川が実権を握り、仲買人が重役陣に加わったことは注目すべきであろう。
昭和二年の札幌市場取引高は、鮮魚一二三万八〇〇〇円、果実・蔬菜八万八〇〇〇円、塩干物一五万一〇〇〇円、合わせて一四七万八〇〇〇円にのぼった(北海道庁産業部商工課 北海道市場要覧)。
その後も仲買人の地位向上の動きはやまず、札幌市場で月末までに完済しなければ歩戻しの権利を没収するという制度をつくったことなどを機に、助川社長、矢村鐘太郎専務ら会社幹部への仲買人の反感が高まっていった。そこで、市場独占を打破すべく、魚商仲買組合の早川寅一、岩波三男、因幡啓太郎らは、昭和三年十一月に株式会社札幌中央市場(後に札幌鱗市場株式会社)を設立し、社長に道会議員で農機具商碌々商会の青木三哉を迎えた(札幌水産物商九十五年、札幌商工会議所月報第七七号)。このころには「札幌市場専属魚商仲買組合」ができ、札幌市場と契約を結んでおり(北タイ 昭5・2・9)、仲買人は、札幌魚市場に属す者と鱗市場に属す者とに分かれている。この後、魚市場は、戦時統制期までこの二市場体制が続いたのである。