ビューア該当ページ

石狩工業港構想

451 ~ 453 / 1147ページ
 日中全面戦争に突入して間もない昭和十二年(一九三七)九月、三沢市長は、「工業の発展奨励は、今後札幌市としてなすべき最大のこと」であるとし、工場誘致に努めることを表明した(北タイ 昭12・9・10)。翌十三年に上京の際には、パルプ工場誘致に動き、また函館からの地方専売局移転に伴い煙草工場、無水アルコール工場設置もありうる、との観測を述べていた(北タイ 昭13・4・26)。
 札幌商工会議所でも、北海道の工業化可能な資源とその採算、下請工業の可能な業種などにつき総合的な調査を計画した(北タイ 昭13・2・8)。北海道庁の下には、道庁経済部長、北大教授、札幌鉄道局札幌逓信局、財界人らで構成する北海道工業振興委員会が設置されていたが、北部産業団体聯合会は、道内資源を利用して製鉄、造船、木材加工、パルプ、ステープル・ファイバー、石炭液化などの工業を興すこと、道内の適当な地に工業地帯を設置することなどを骨子とする振興策を提出した(北タイ 昭13・3・7)。北海道工業振興委員会では、工場誘致のための免税などの企業優遇策、工業地帯設置、工業港新設を協議した(北タイ 昭13・5・4)。このように、日中戦争期初期には、北海道札幌の工業化がさまざまな立場から論じられていた。
 この頃から、「工業港建設」が浮上してくる。場所は、札樽間、銭函、石狩河口といくつか提示され、三沢市長もたびたび現地に足を運んでいる。札幌・小樽両商工会議所では、専門委員を出し合い、合同調査や、道庁長官への合同陳情を行った。
 とりわけ、この時期の北海道開発論は、大阪財界が積極的に関わっていた。十三年四月十二日には、大阪商工会議所ビルにおいて、北海道産業懇談会が開かれた。全国産業団体聯合会(以下全産聯と略)が中心となり、会長藤原銀次郎をはじめ、関東から古川電気社長中川末吉ほか一四人、中部から豊田利三郎ほか一一人、北部から大瀧甚太郎ほか一六人、関西から一二二人、来賓として吉野信次商工相らを迎えるという大規模なものだった。このなかで北海道は電力料金が高いなどの非難も出されたが、石黒英彦北海道庁長官は、輸送、電力など極力改善しつつあることを強調し、本州からの視察・調査を呼びかけた(北タイ 昭13・4・16~20)。この年には同種の懇談会が数回開かれている。また、大阪工業会を中心に北海道資源開発同志会が結成され、札幌に斡旋所を置き、新規事業の調査、鉱業権移転・譲渡の仲介などを企図した(北タイ 昭13・9・27、11・8)。
 翌十四年も、北海道における工業港開発構想は、石狩、銭函、苫小牧、留萌を候補地として調査・検討が継続された。札幌市は、石狩河口にターゲットを絞り、市長、市会正副議長、周辺一五町村長などで工業港築設期成同盟会を結成し、まず石炭積出港新設を予算要求したが、昭和十五年度予算には入れられなかった(北タイ 昭15・1・25、2・13)。この年の後半には、道として、工業港新設は石狩、勇払(苫小牧)に統一したようである。福岡市役所商工課が、日本海側諸港湾を調査した資料に「石狩港修築並工業地帯造成計画」がある。これによると、外港施設として東防波堤、西防波堤、内港施設として水路、泊渠(船泊まり)、運河を設け、総事業費三四二〇万円、期待工業種目として製鉄、人造石油、硫安、曹達灰、苛性曹達、人造繊維、造船、造機、紡績、硝子、煉瓦などがあげられている(福岡市役所商工課 内地諸港湾実地調査報告書)。その後も、石狩工業港実現の運動は続けられるが、昭和十八年度予算にも入れられなかった(道新 昭18・2・21)。その後は戦局の悪化により、立ち消えの運命を辿ったものと思われる。