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暴利取締令と輸出入品等臨時措置法

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 図7、8に昭和十一年三月以降の卸売価格を示した。十一年後半には馬場財政下にインフレ傾向が強まり、十二年度大型予算発表、貿易収支入超拡大を機に物価は高騰を続けた。翌十二年は、初頭から輸入為替許可制により輸入原料需給は逼迫し、軍備拡張は重化学工業資材価格にはねかえった。図8の亜鉛鉄板や鉄材などが十一年末から十二年初めにかけて奔騰し、次いで五月から石炭が上がり始めた。一方農産品は、十一年十月~十一月に下落するものが多かったが、十二年から上昇に転じた。

図-7 卸売価格 農産品 札幌商工会議所『月報』により作成。


図-8 卸売価格 鉱工業品 札幌商工会議所『月報』により作成。

 七月に日中戦争が始まると、政府は物価高騰を防止すべく八月に暴利取締令(大正六年九月公布)を改正し、九月には輸出入品等臨時措置法を公布し、本格的な物資統制を開始した。札幌商工会議所では、八月三十一日緊急役員会において、会議所内に物価特別委員会を設けて物価調査、平衡維持に努めることとした(北タイ 昭12・9・1)。しかし、その後も物価上昇の勢いはやまず、十三年一月の札幌小売物価は前月に比し、七四品目中四〇品目が騰貴し、一六品目が下落、一八品目が保合であった。平均では、前年同月比一割三分三厘上昇、昭和九年平均に比べると二割九分高くなっていた(北タイ 昭13・2・9)。
 この年四月頃から、物価対策として公定価格の導入の是非が議論され始めた。生産力拡充、軍拡遂行、国際収支改善、特に対英為替相場一シリング二ペンス維持という政策課題を達成するために、物価は抑制しなければならなかったのである。このころ、北海タイムス社は、黒川清雄日銀支店長、横浜正金銀行小樽出張所主任、道銀支配人、三井物産小樽支店長など、小樽経済界の名士を一同に集めて、物価対策座談会を催している。そのなかでは、物価抑制のために強力な統制経済でいくのか、自由経済でいくのか見解が分かれ、統制経済を主張する者も、業界団体による自治的統制を念頭に置いていた。しかし、座長を務めた黒川日銀支店長は、最後に「今日の我邦の実状から申しますと、最早統制の是非に対する議論の時代を去って、実行方法に関する討究の時代に入っている」とし、しかもそれは「官治統制に依らねば当面の目的が達し難い実情にある」と述べた(北タイ 昭13・5・22、29、6・2、26)。
 これ以後の物価統制は、公定価格の設定に向けて動き出すことになる。四月の物価委員会令に基づき、中央物価委員会、地方物価委員会が設立され、北海道においては北海道地方物価委員会が六月に組織された。メンバーは、石黒道庁長官、遠山信一郎経済部長、高岡熊雄北大名誉教授、第七師団経理部中村主計中佐、村上元吉道会議長、大瀧甚太郎札幌商工会議所会頭、小林篤一北聯会長、岩崎北海道商業組合協会長、黒沢酉蔵酪聯会長、その他新聞社、道庁吏員等であった。地方委員会では、さっそく石炭に関する専門委員会を設置し、審議を開始した(北タイ 昭13・6・23)。石炭は戦時需要が急増する一方、労働力不足、資材不足・値上がりにより採炭コストが上昇し、五月に昭和石炭株式会社は家庭用炭を含む値上げを発表していた。ところが、これは道民生活を直撃するものとして、道庁当局は反対し、昭和石炭との交渉が繰り広げられていた。六月末にはようやく妥協に達し、個人消費家庭用の塊、中塊炭、学校暖房用塊、中塊炭を一等品は二円引下げ、二等品は二円五〇銭引下げということに決まった。この案をさっそく北海道地方物価委員会石炭専門委員会にはかり、了承され、七月三日の北海道地方物価委員会にて正式決定された(北タイ 昭13・7・1、2)。この経過をみると、昭和石炭がいったん炭価を決定したものの、道庁の介入により変更を余儀なくされ、その正式決定の場として北海道地方物価委員会が機能していることがわかる。