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乳製品

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 札幌は、北海道製酪販売組合聯合会(以下酪聯と略)の本拠地である。表53は酪聯の食品工業分野に関する年表である。札幌市域における酪聯の工場は、大正十四年上野幌の仮工場に始まる。生産品はバターであった。当時は、原料乳は函館本線厚別駅に到着し、そこからの運搬、さらには製品の搬出が一苦労であったという(雪印乳業株式会社 雪印乳業史 第一巻)。
表-53 北海道製酪販売組合食品工業関係年表
大14年5月有限責任北海道製酪販売組合創立総会開催
7 白石村大字白石字野津幌(現厚別区上野幌)出納農場製酪所を仮工場としてバター製造開始
15.6 保証責任北海道製酪販売組合聯合会に組織変更
9 札幌村大字苗穂村に本部事務所・工場建設
12 「雪印」の商標登録
昭 3.6 札幌工場でアイスクリーム製造開始,翌年から大量生産
12 札幌工場でチーズを試作・販売したがまもなく中止
5.2 札幌工場で煉乳製造を開始し「雪印組合ミルク」として販売
5 札幌工場でカゼイン製造開始
6.   過剰乳処理のため各社がバターを製造し市価暴落
7.6 第62議会でバター,煉乳,粉乳などの乳製品関税を35~89%引上げ
8.8 勇払郡安平にチーズ専門工場を設立しチーズ製造開始
9.3 「人造バター」の名称を禁止し「マルガリン」とするよう議会請願
13.1 カゼイン工業3カ年計画,乳糖自給3カ年計画,皮革製造開始
7 上海事務所,上海工場,天津出張所を開設
14.7 札幌村字苗穂に皮革工場建設,操業開始
8 バターとマーガリンを混ぜた雪印マーガリン製造開始
15.3 日本油脂(株)と共同出資で北海食用油脂(株)を設立し,純マーガリンを製造
8 明治製菓,極東煉乳,森永煉乳と公社設立で合意(「嵯峨野会談」)
16.2 北海道興農公社設立
雪印乳業株式会社『雪印乳業史』第1巻,北海道製酪販売組合聯合会『酪聯十年史』,青山栄『黒澤酉蔵』(黒澤酉蔵伝刊行会)より作成。

 酪聯専務理事黒澤酉蔵は、十五年一月に道産バターの欠点として、一、道内製造所が大小九〇カ所あり、品質が不統一であること、二、需要の少ない夏に生産量が増え、冬に生産量が減ること、三、着色、塩加減、水切りが不良で包装、容器が輸入品に劣ること、四、冷蔵庫利用が不十分なため輸送途中で変質、溶解しやすいこと、の四点を指摘した(北タイ 大15・1・8)。苗穂本工場における大量生産の開始はこれらの課題の解決に寄与した。また、昭和初期にバターをはじめとする乳製品関税引上げを求めて運動を展開し、七年に果たした。
 煉乳、粉乳は、大正十四年末札幌には極東煉乳株式会社札幌工場(豊平1条3、職工数五八人)、北海道煉乳株式会社工場(北6東11、同三八人)があった(第一二回統計年報)。極東煉乳札幌工場の昭和二年生産額は、煉乳二六三万ポンド(一〇〇万円)であり金額で同社全体の六一・八パーセントを占めた。北海道煉乳は、同年大日本乳製品株式会社と改称し、生産額は煉乳四五一万ポンド(一八四万円)、粉乳一一万ポンド(一七万円)であり、同社は煉乳・粉乳のすべてを札幌で生産していた(中島常雄編 現代日本産業発達史 ⅩⅧ 食品)。これら二工場はバターも製造していたが、バターは技術的性格からしても小資本で製造可能であり、ここに酪聯が参入する余地があったのである。
 昭和恐慌により酪聯、煉乳会社は大きな打撃を受け、原料乳確保、生産分野についての協調の機運がつくられた。七年一月から翌年一月にかけて大手煉乳会社と酪聯との統制契約が締結され、北海道において酪聯は煉乳を製造せず、会社はバターを製造しないこと、会社の必要とする原乳はすべて酪聯から買い入れること、原料乳価は官庁、酪聯、煉乳会社、原乳生産者など一五人からなる北海道乳価評定委員会の決定によること、の三点を協定した。これ以降も酪聯のバター生産は全国市場に向けて発展し、昭和十年には全国の九〇パーセントのシェアに達したのである(同前)。
 ここまで述べてきた各種食品工業は、製品の市外移出率がきわめて高かった。昭和七~九年平均で清酒及び麦酒が七一パーセント、醤油醸造が七九パーセント、味噌醸造が七六パーセント、製粉業が日本製粉工場が休止している時期だが七一パーセント、煉粉乳九八パーセント、となっている(工業調査書 其ノ二)。市外移出率のこの高さは、石狩支庁管内などの周辺町村だけではなく、かなり広域の市場を開拓したことを推測させる。