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鉱山街の形成

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 上記のような諸鉱山があったが、特に大きな鉱山であった手稲鉱山豊羽鉱山には、そこで働く労働者たちが住む街が形成された。
 手稲鉱山には、北海道庁警察部が調査した二〇〇戸以上連担(軒や庇を連ねている)戸口表では、昭和十五年末に一三二三世帯、六九三二人が住んでいた(北海道庁統計書)。そのため、その山元に従業員の宿舎、独身寮、特別教授場、郵便局巡査派出所が建設され鉱山街を形成した。また最寄りの駅である軽川には、鉱山関係者が利用する飲食店や料理屋が集まった(手稲町史、浅田政弘 手稲鉱山について)。
 豊羽鉱山には、上記の連担戸口表では昭和十五年末に三〇一世帯、一八九五人が住んでいた。さらに十七年には従業員が元山には九七二人、石山の選鉱所には二五五人いたことになっており、家族も合わせて三九〇〇人余がいたと推定する研究もある。そのために石山には社宅など、元山には鉱山施設の他に社宅、合宿所が建設され、学校、郵便局、駐在所、会館、診療所、物品配給所、食料品市場、寺院、火葬場などの設備まで整って、やはり鉱山街が形成されていた(豊平町史、浅田政弘 豊羽鉱山小史―戦前編)。