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豊平町・吉田農場の争議

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 以上、昭和前期における札幌市の小作争議のなかで、特筆すべきものとして篠路村と藻岩村の学田地の争議を取りあげてきたが、篠路村で争議の起きた昭和三年には、札幌豊平町大字月寒村の吉田農場(経営者吉田善助)でも、小作料の減免を求める争議が起きている。吉田農場は、善助の父善太郎が明治二十六~二十七年頃、大谷地に「荒蕪」地二三万余坪を入手したのが最初といわれ、明治四十四年発行の『豊平町勢一班』には、次のように記されている。
吉田牧場ハ吉田善太郎ノ経営ニシテ大字月寒村字大谷地ニアリ、其地積放牧地十五万三千坪、牧草地二十四万五千坪、穀菜畑其他六万八千百二十七坪ヲ有シ、目下良牛十五頭、馬五頭、豚十頭を飼育ス、吉田牧場ハ△(ママ)吉田善太郎ノ長子善助ノ経営ニシテ大字月寒村字北通ニアリ、其地積放牧場六十町歩、牧草地六十町歩、其他耕地十町歩ヲ有シ、飼育ハ専ラ牛匹ノ改良繁殖ヲ図ラント欲シ、外国ニ留学シ帰場後其経営中ニシテ、目下純粋良牛七十頭、馬二十頭ヲ飼育ス

 この記述にはやや意味不明な点もあるが、いずれにしてもこの段階では、吉田父子の経営する二カ所の牧場があり、父善太郎の牧場は四六万六一二七坪(約一五五町歩)、子善助の牧場は一三〇町歩(約三九万坪)であった。善太郎は大正五年に死亡したため、その後は善助が相続したが、大正十一年頃には、「吉田善助所有の月寒北通の土地百三十町余の地積内に百に近き牛を飼育し」(豊平町勢一班 大11)とあって、善助自身は牧場を経営している。一方、最盛期の吉田農場は、水田七〇町歩、畑六〇町歩、小作人三〇数戸ともいわれ(豊平町史)、後で触れるように善助は相続した大谷地の牧場を農場に転換させたものと思われる。
 さて、この吉田農場で争議が起きたのは昭和三年のことであったが、この事件について『労働農民新聞』第六八号(昭3・11・10)は次のように報じている。
   吉田農場遂に/四割減免
之迄、一時に二十五割も値上げをしたり、途方もない小作料をとり小作人を酷使し尽してゐた地主吉田善助は今年も又二年田五斗三年六斗といふ高い小作料を要求して来た。小作人はこの不作にその半分も納められるものかと、日頃の不平を爆発させ、新党札幌支部(筆注―三・一五事件で弾圧された労働農民党札幌支部に代わる新党のこと)並に全農北海道支部聨の下に一斉に立って四割減の要求を出し大野(ママ)地部の小作人は前後二回に渡って部落民大会を開いて此の要求を突きつけた。此の気勢に怖気ついた吉田は代表を御馳走攻めにしたり官憲をつれて来て脅かしたり切崩しにかゝったが小作人側の結束益々固く十月三十日遂に二年田の五斗を平均三斗以下に減免させてしまった。なほ大野池(ママ)部落の勝利に元気を得た興産社其の他の部落民は相次いで奮起せんとしてゐる

 同じ『労働農民新聞』第七〇号(昭3・12・1)はこの争議の続報として、十一月十七日夜、全農北海道聨合会等の支援の下に「大野(ママ)地方部落大会」が開かれ、農場側に次の要求を行ったことを記している。
未納小作料は無利子
元金並に家建築費、百五十円を五割減
右残額より去年今年の造田費を支払ふこと
以上の残額を十ヶ年年賦償還

 この争議の結末は必ずしも明らかではない。ただし、吉田農場がその後社台方面に移転したことは(豊平町史)、あるいはこの争議と一定の関わりがあるのかも知れないが、詳細は不明である。なおこの吉田は、大正八年に篠路村の拓北農場篠路支場を四六万円で購入した人物として知られるが(市史 第三巻)、昭和初期に拓北農場の水田化を計画したものの失敗し、昭和十四年に農場は北海道拓殖銀行の所有となっている。