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禁酒・矯風会

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 社会改善運動として、大正九年創立の札幌禁酒会(初代会長高杉栄次郎)や日本キリスト教婦人矯風会札幌支部(以下矯風会と略)は、前述の札幌生活改善会の活動に歩調を合わせるかのように運動を展開させていった。
 札幌禁酒会では、大正十一年四月一日未成年者飲酒禁止法が施行されたのを受けて、これの実行に務めた。十二年二月三、四日には、札幌禁酒会、日本国民禁酒同盟会の主催で、北海タイムス社、道庁社会課、札幌市役所後援で、札幌時計台を会場に生活改善消費節約禁酒活動大会を開催した。活動写真を通して飲酒の弊害と生活改善を呼びかけたもので、当日は立錐の余地のないほど盛会であったという(北タイ 大12・2・3~4)。
 札幌禁酒会は、矯風会と連合してしばしば会合を開いている。十三年一月の新年親睦会(北タイ 大13・1・15)、同年七月十九日の第四回北海道禁酒研究会(開催地小樽市、北タイ 大13・7・22)、十五年九月一日の震災三周年の禁酒講演会(北タイ 大15・9・4夕)がそうである。第四回北海道禁酒研究会では、矯風会本部の久布白落実が禁酒講演を、震災三周年の禁酒講演会では、矯風会札幌支部長の佐々辰子が「母性愛」について講演をした。その矯風会は、もともと禁酒と男女の貞操問題を会の第一の運動として出発した女性団体である。約半世紀の活動歴を持つ同会は、しばしば活動目標を同じくする禁酒会をはじめ、廓清会等と手を結び、ともに活発な活動を展開している。この時期はとくに、第六章四節で述べたように、廃娼聯盟(のち同盟)を結成、北海道廃娼同盟の設立をみたのは昭和四年のことである。同会は、幅広い社会生活改善運動をとおして一定の役割を担っていた。
 昭和二年九月一日は、ちょうど関東大震災五周年にあたることから、札幌禁酒会は、札幌禁酒青年団と共催、矯風会等の後援で、震災記念禁酒講演会を開催、同時に「全国酒なしデー」をすることとした(北タイ 昭2・9・1)。この時、二五歳禁酒法案を次期議会に提出することが決議された。
 昭和三年五月二十一~二十二日にかけて、第六回全道聯合禁酒大会が小樽市で開催され、前第二師団長井上中将のほかに神戸婦人禁酒禁煙会長小杉イネの参加もみられた。小杉イネはその大会の前後何度も札幌で講演し、「日本の婦人は夫の飲酒に対してこころよく従ふことが貞節であるといふ考を持ってゐますが此の誤れる観念から抜け出ることが急務」と、北海タイムスの記者に語っている(北タイ 昭3・5・30)。同年五月三十日、禁酒はまず子供のうちからと、札幌禁酒青年団主催で、「のぞみの友」と名付けてお話と音楽の会を札幌市公会堂で開催、小学四年生以上の少年少女たち二〇〇〇余人が集まったという(北タイ 昭3・5・31)。ちなみに女子部の新設は翌四年に入ってからである。
 北海道内の禁酒会は、昭和四年当時四〇余団体に達し、七月五~七日には日本国民禁酒同盟第一〇回全国禁酒大会札幌で開催した。申込者は本州をはじめ朝鮮、樺太から四三〇人もあり、矯風会本部からは守屋東が参加、「一町村一禁酒会」「二十五歳禁酒法を通せ」「青年を我等のものに」の三問題の討議がプログラムに入っていた(北タイ 昭4・7・4)。禁酒大会が開催された同年九月一日の「全国酒なしデー」の札幌禁酒会の宣伝ビラには「緊縮・節約は酒から(一日の酒代四百万円)起て!良心の総動員/禁酒は国難打開の根本」と記され(北タイ 昭4・9・1)、政府の勤倹緊縮に呼応した行動となっている。
 禁酒運動の発祥地(北海禁酒会 明20創設)としても誇りある札幌禁酒会は、昭和七年四月二十九日の天長節に全国禁酒大会から優勝旗を授与され、二五歳禁酒奨励案北海道会通過祝賀も兼ねて、道内一五〇の禁酒団体、小・中学生有志約三〇〇〇人が豊平館前に参集し、禁酒歌を高唱しながら市内を示威行進した(北タイ 昭7・5・10)。
 昭和十一年三月の総会では、「軍人さん歓迎にお酒は法度」と、同年十月挙行の陸軍特別大演習に備え、宣言・決議を行っている(北タイ 昭11・3・8)。このように札幌禁酒会は、文部省の提唱する生活改善運動に呼応した活動を展開していた。