これらの塵芥・屎尿処理をはじめ、伝染病対策になくてはならないのが衛生組合であった。衛生組合は、明治三十一年の改正伝染病予防法にもとづき、三十二年に設立をみたものである。大正十一年の市制施行時にあった二九組合、一聯合会も、昭和四年には三六組合、一聯合会となり、昭和十五年十一月二十日の道庁令による解散時には五〇組合、一聯合会という具合に、人口増加に比例するかのように組合数を増し、各聯合公区衛生(のち健民)部に引き継がれることとなった。
衛生組合の目的は、大正八年道庁令改正衛生組合設置規程によれば、衛生思想の普及、伝染病予防のための種々の対策、清潔法等の告知、種痘の普及等とされ、組合には組長、副組長、伍長等の役員を置き、組員による選挙によって選任された。この組合役員は、地域の名望家の活躍の場でもあったことから、組長選挙はともすると地域の派閥闘争ともなり、また昭和三年の第一回普通選挙が行われた翌年には、組合幹部をめぐって政党に利用される傾向さえ生じ、「政党化のおそれ」が危惧された(北タイ 昭4・10・25)。それと、七年四月の改選時には、「婦人の投票も自由」であり、「けふだけは婦選」といわれるごとく、当時としてはまれな、女性にも選挙への道が開かれていた団体でもあった(北タイ 昭7・4・2)。
大正十四年八月七、八日、札幌で第二回北海道市町聯合衛生組合大会が開催され(大7第一回)、両日を「衛生デー」とし、市内で各種衛生宣伝や育児展覧会、活動写真等が催された(北タイ 大14・8・8)。
昭和に入っても伝染病の流行はおさまらず、このため昭和三年以来毎年市衛生組合聯合会では、七、八、九月の十七日を「衛生デー」と決め、清掃、散水、蠅の駆除等をビラ二万枚を配布して呼びかけた(樽新 昭3・8・17)。さらに同組合では、四年十二月には内務大臣宛に衛生組合法の制定促進の陳情書を提出したり(北タイ 昭4・12・17)、八年十一月以来屎尿の無料汲取や市営化を市にくり返し陳情したり(北タイ 昭8・11・21)、地域住民の生活に直接関わる衛生問題全般を一手に引き受けてきた。なお、この市衛生組合聯合会を母体に「銃後の健康増進」のために、十四年六月に衛生婦人会が各衛生組合ごとに設立されたが(北タイ 昭14・6・8)、十五年十一月衛生組合の解散によって、翌十六年三月解散(北タイ 昭16・3・21)、各聯合公区衛生部婦人班となった。市衛生組合聯合会所有の衛生会館(陸軍特別大演習本道行幸記念事業の一つとして北2西2に昭和十三年落成)は、十六年三月、市に引き継がれ、一部は庁立札幌健康相談所に貸与、一部は新設の市立札幌母子保健相談所にあてられた(札幌市事務報告)。