『北海タイムス』による盧溝橋事件についての報道は、七月九日付朝刊で、「盧溝橋事件暫定停戦/八日正午を期限に/盧溝橋一帯から撤退/履行せざる時は団乎膺懲」と大きな活字で報じ、以後戦況を次々に伝える。ところで、一日早く「日支交戦」を聞いた人びとがいた。小樽の道博会場では、八日午後北海タイムス社の放送塔から会場内にアナウンスされたのである。入場者はしばし足をとめて「国際危局を深く痛感して」いたという(北タイ 昭12・7・9)。
八月二十九日、札幌郡手稲村出身の航空兵曹はじめ八人の遺骨が本道へ帰還し、新聞は戦死者を大々的に報じた。手稲村出身の航空兵曹は、「空襲の勇士/今ぞ母の手へ」といった新聞の見出しどおり、南京空襲での戦死者であった。母親が横須賀まで、兄と手稲村長が函館まで出迎えに行き、この日故郷の軽川駅に帰還したのである。駅ホームでの出迎えや駅前にしつらえた祭壇への遺族や各種団体の焼香の模様を新聞は詳報するものの、家族の談話などは一切報じていない。同日、札幌駅頭においても旭川、岩見沢出身者等六人の戦死者の慰霊の光景がみられた(北タイ 昭12・8・30)。この頃より、札幌市民は次第に戦争を身近なものに受けとめてゆく。
「事件」直後から大々的に報道されたのが「献金」と「美談」である。札幌での献金第一号は十四日の狸小路商店主の一〇〇円である(北タイ 昭12・7・15)。十七日現在札幌聯隊区司令部でのとりまとめでは、二六件、一二〇〇余円(北タイ 昭12・7・18)と、満州事変の時と同様明らかに人びとはまだ熱くなっていない。
新聞は、人びとがまだ熱くなっていないのにもかかわらず、「献金」現象を書いてゆく。とくにこの時期新聞が強調したのが子供の献金で、「お小遣い」を差し出すけなげな姿が報じられた。豊水小一年生の場合、「赤誠溢る小国民―非常時を彩る感激篇」の大きな活字で、「コレハお小遣ひに貰ってたのをタメタノ!ヘイタイサンニオクッテ下サイ」と言って金二円を札幌市役所の窓口へ差し出したとか、東小一年生が小遣銭一円七〇銭と銀紙五キログラムを北海タイムス社窓口に差し出した(北タイ 昭12・7・17)ことなど大きく掲げられた。また、この時目立つのは「周縁部」とみなされた人びと、たとえば娼妓、カフェーの女給等が献金した時にはそれぞれの様相が詳しく記された。市内白石遊廓の娼妓等一六人が札幌聯隊区司令部へ出かけ、「私たちも立派な日本の女、この真心を受けとって下さい」と二二一人分、六七円八〇銭を献金したと報じ、「銃後に逬(ほとばし)る『傾城の誠』」と評された(北タイ 昭12・7・22)。
北海タイムス社が「軍事献金を募る」の社告を出したのは八月一日のことである。献金者があると逐一「芳名」と献金額を新聞で報じたため、以後献金競争が展開された。献金額は、八月十二日に五万円を突破、三十日には九万一〇〇〇余円に達し、献金熱は日を追うごとに増していった。そして「南京陥落」を経た十二月二十七日現在一三万五九二一円余に達する(北タイ 昭12・12・28)といった「献金現象」を巻き起こしていった。
それとともに当時の新聞に特徴的なのは、「私をぜひ戦線へ/血書に漲る赤誠」(北タイ 昭12・7・30)といった従軍願いをはじめ、全市わきあがるような献金の殺到に札幌聯隊区司令部では感激のるつぼと化しているといったように、人びとの「熱誠」を煽りたてた。そして、日露戦争下では困窮する出征兵士の家族の状況が報じられたのに対し、そういった記事は報道管制のため一切載っていない。報じられるのは出征兵士(古本屋業)の家族を隣近所が応援している「銃後美談」であったり(北タイ 昭12・9・27)、子供から大人にいたるまで老若男女を問わず全国民が国策に献身的であるかのように新聞は大きく取り上げた(これらの「銃後美談」は、十三年十二月、帝国軍人後援会道支会〔恩賜財団軍人後援会に合流〕から『事変美談集』として一冊にまとめられた。この中には皇軍の武運長久を祈願する少年たちや、千人針を縫う女性たち、応召兵の見送りの風景等銃後の写真を配し、人びとの広範な共感を得るように作られていた)。
「献金」「美談」とともに、七月末には札幌の街にも「千人針」があらわれた(北タイ 昭12・7・30)。