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動員の諸相=銃後後援組織

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 日中戦争勃発をきっかけに、帝国在郷軍人会(郷軍)、銃後後援会国防義会等が銃後後援組織として活動を展開してゆく。このうち、札幌聯隊区司令部管下にあった郷軍は、「事件」勃発後の七月十八日、札幌市聯合分会八〇〇〇人が中央創成小で大会を開催、「暴戻(ぼうれい)支那を膺(う)て!」のもとに「国策の遂行に邁進」することを決議した(北タイ 昭12・7・19)。郷軍市聯合分会のもとには、町内会・学校ごとの分会、さらに班に分かれ、日中戦争以後は家庭と郷軍とがより密接な位置関係におかれた。また、国婦のところでも述べたように、郷軍と国婦はしばしば一体となって行動している。市東分会(創成川以東大通より南七条)を例にみてみると、十三年十月四日、出征軍人遺家族慰安会を市公会堂で分会出身遺家族二〇〇〇人を招いて開催、「小学生のお話と劇」「歌謡曲と軽音楽」「舞踊」、北海タイムス社提供ニュース映画上映等があり、この時同地域の国婦、銃後後援会、男女青年団も後援している(北タイ 昭13・9・27)。もちろん、各町村でも各分会が同様な活動をしていた。こうして、日露戦後の地方改良をになう重要な統合団体として組織された郷軍は、日中戦争以後、家庭と軍隊とを結ぶ重要な役割をになった。
 「事件」をきっかけに「軍人遺家族慰問並に扶助の機関」として札幌銃後後援会が、十二年七月二十七日三沢札幌市長を会長に発会した(北タイ 昭12・7・28)。同会は、祭典区にならって全市を一七の実行班に分けて活動基盤とし、班内の遺家族の生活状態の調査を密に行い、扶助等を怠りなく行うものであった。同後援会は町村部にも一斉に設けられ、藻岩村では出征遺家族に縫製作業など副業を斡旋した(北タイ 昭13・2・4)。後援会は十四年四月一日、札幌市銃後奉公会と改組され、従来通りの目的のうえに、軍事思想の普及等銃後精神の発揚に努力することが求められた(北タイ 昭14・4・5夕)。十五年十月には、銃後奉公会が中心となって「銃後奉公強化運動」が展開され、「英霊感謝」「軍人援護」「銃後奉公」の徹底がはかられた(北タイ 昭15・10・7)。なお、北海道庁では、「事件」直後から銃後後援のパンフレット『銃後の護り』を発行し、各市町村の銃後後援会実行班へ配布するとともに、銃後におかれた民衆の戦意を高揚させ持続させるべき内容を掲載して広範な共感を持たせた。