ビューア該当ページ

青年の組織・女性の組織

830 ~ 831 / 1147ページ
 第二の「統合」は、青年と女性がかかわる組織団体にみられた。札幌市にあった青年団は、昭和九年段階には一聨合青年団、一三分団、七六〇人の団員から構成されていた。また、町村部でも札幌村以下七町村合わせて六四分団、一八九三人の団員から構成されていた(北海道青年団名簿)。その多くは、札幌市外藻岩村円山分団にみられるように、青年相互の修養の機関誌として『団報』『団誌』を発行している。
 札幌市および町村部の青年団では、すでに日中戦争直後から出征者の歓送など女子青年団とともに参加している。十二年十月に開始された国民精神総動員運動においては、札幌市聨合青年団が先頭に立って銃後の守りについて協議し、全市を回って古雑誌を集め、飛行機献納資金として大日本青年団に送付した。その一方、女子青年団も「銃後の護りの日」には札幌陸軍病院に慰問活動を行っている(北タイ 昭12・10・13)。
 こうした青年団は、十六年一月、大日本青年団のほか、大日本聨合女子青年団、大日本少年団聨盟、帝国少年団協会が「統合」され、大日本青少年団が発足し、新たな組織としてスタートする。ここにいたっては「一元的体系化」が図られ、男女の同一訓練が盛り込まれた。十六年七月実施の勤労総動員指定団の錬成会はその第一歩で、北光男子青年団桑園女子青年団が日こそ異なるが同様の内容の錬成を受ける(北タイ 昭16・7・6)。さらに錬成会は女子青年団幹部へと目が向けられてゆく。彼女たちは、「銃後乙女の重大責務」と受けとめる(北タイ 昭16・10・10)。
 これに対し、女性の社会組織の「統合」においてはそれぞれの組織に影響力を与えた。戦時女性団体は、四節でも触れたとおり、愛婦、国婦、聨婦の三つどもえであった。各女性団体とも個別の個性を持たされていたが、十二年の日中戦争直後の行動をとおしてみると、特に愛婦と国婦とでは重複する行動が多く、一人で二本のたすきをかける者まででてきた。このため、十三年一月の全国町村長会議では両団体の合同提案が可決されたが、実現にはいたらなかった(婦女新聞)。
 こうしたなか、十七年二月、愛婦・国婦・聨婦の三団体が「統合」され、大日本婦人会(日婦)が設立された。日婦は、「二十歳未満ノ未婚者ヲ除ク日本婦人ヲ以テ会員」とする団体で、「大日本婦人会定款」では、「国体観念ノ涵養、婦徳修練」「国防思想ノ普及徹底」「家庭生活ノ整備刷新」「次代国民ノ育成、家庭教育ノ振興」「軍人援護」「国防上必要ナル訓練」等々を事業として掲げている。これは女性に「婦道を磨くこと」と「銃後国防の大任」を負わせたものである。五月八日の道支部結成式に引き続いて、六月八日札幌支部結成式が会員五万人で行われ、支部長には高岡愛子(前愛婦分会長)、副支部長には勝田ふみ・諸岡ハルエが就任した(北タイ 昭17・6・9)。しかも、日婦の末端組織を三三〇の公区隣保班としたので、結成直後は公区婦人班と日婦婦人班との混乱もあったようである。だが日婦の班は公区と密接な関連をもち、ともに活動を行うが、公区婦人班長と日婦班長とは重なることが求められ、七月七日の役員会では、支部と三三〇の公区との連絡方法、貯蓄組合の結成、常例理事会の開催、慶弔、役員推薦に関する件の五大目標が決められた(北タイ 昭17・7・9)。その後日婦札幌市支部は、五万人を動員して「貯蓄増強」「地下産業戦士と船員に対し感謝督励」「軍人援護」「監視陗隊員慰問」「木炭蒐集」の五大運動を展開(北タイ 昭17・12・10)、「決戦生活体制」をつくりあげ、戦時生活の実践を人びとに迫っていった。