大正十二年(一九二三)十二月時点で、市立小学校の尋常、高等の両科を合わせて全二七九学級(一〇校)中、二〇四学級(七三・一パーセント)が「第三次小学校令施行規則」に規定された児童数を超過していた。同規則第三〇条によれば、一学級当たりの児童数は尋常小学校で七〇人、高等小学校で六〇人がそれぞれ上限とされていた。札幌市小学校長会の同時期の調査では、全国の各市のなかで、札幌市だけが尋常科の一学級当たりの平均児童数が七二人に達し、法令の上限を超えていた(北タイ 大12・12・8)。平均児童数の最大は西創成尋常高等小学校の尋常科で、七七・七人であった(札幌市事務報告 大12)。
これを小学校の施設面から見ると、大正十二年の時点で、普通教室は入学者の増加が著しかった北九条尋常高等小学校の一三教室をはじめとして、札幌市全体で二五教室が不足していた。また、唱歌や裁縫用などの特別教室も西創成、北九条の両校の三教室をはじめとして、全市で一九教室が不足していた。さらに、北九条校では児童用便所が男子用と女子用を合わせて、三六基不足するなど事態はきわめて深刻化し、「どの学校の設備も大変手薄なため、或は特別教室を普通教室にあて、或は運動場、雨具置場等を仮教室としてようやく急場を凌いでゐる有様で」あると報じられていた(札幌教育 第三〇号)。
こうした現状を解決するための方途として、札幌市長・高岡直吉は大正十三年一月、学務委員会に「第一期札幌市教育五年計画」の諮問案を提出した。諮問案の骨子は「本市小学校の設備を改善拡張し、以て逐年増加すべき就学児童の収容に遺憾無からしむると共に、之に依りて二部教授を全廃し、又、学級児童数を緩和し、且つ、特別教室、仮教室の復旧整理を併せ行はんとす」るという内容であった。計画期間は大正十三年度から「大正十七年度」(昭和三年度)までの五年間で、総経費は一二四万二二〇〇円余を予定していた。
この計画に基づく新設校は北光(大13)、幌西(大15)、東橋(昭2)、桑園(昭3)の各尋常小学校(設立時)である。また、増築したのは西創成、苗穂、山鼻、豊水、東などの尋常高等小学校八校である。特に、東校は「最新式を誇る」理科室、理科準備室、図画教室、手工室、裁縫室などの特別教室を設置したと報じられた(樽新 昭3・12・9)。この新設と増築によって増加した教室数は一八一学級分であった。しかし、計画完了の時点でも、普通教室の特別教室への転用が依然として行われていた(札幌市会小史 第一期・第二期)。東橋尋常高等小学校にいたっては、昭和三年の時点で、すでに各校からの転校者の激増で「早くも狭隘」状態であった(樽新 昭3・9・22)。
写真-1 東尋常高等小学校図画教室(昭3)
札幌市ではさらに単置制高等小学校の新設や特別教室の増設に加えて、学齢児童の増加対策として、総経費八八万円余りを投入し、昭和三年度から七年度までの「第二期札幌市教育五年計画」を策定した。この計画にしたがって、第一(昭5)、第二(昭6)、女子(昭5)の高等小学校三校を新設した。これは大正十五年の文政審議会の答申(第六号「高等小学校制度ノ改善」)に基づくもので、「図画」や「手工」と並んで、「実業」科目が重要視され、農業・工業・商業のうち一科目以上が必修となっていた。これには尋常小学校卒業者の進学率が高い高等小学校の教育内容を充実することによって、中等学校進学者を抑制し、社会問題化していた「試験地獄」を緩和する意図があった。札幌市では高等小学校の単置化によって、それまでの尋常高等小学校をすべて尋常小学校に格付ける措置をとった。
また、既設校の増改築は山鼻、東北、豊水、東橋の各尋常小学校で行われた。この計画が完了した七年十一月時点で、札幌市の尋常小学校は一四校(三七六学級、児童数二万五五〇〇人)、高等小学校は三校(五九学級、児童数三三三六人)を数えていた(札幌市事務報告 昭7)。しかし、一学級当たりの平均児童数は尋常小学校では六七・八人、高等小学校では五六・五人に達し、教育条件は「国民教育の徹底上遺憾に堪ざる」(札幌教育 第九七号)と酷評されるありさまであった。
このような劣悪な教育条件を改善し、「真に教育の徹底を計り、其効果を増進」(同前)するために策定されたのが、昭和八年度から十二年度までの「第三期札幌市教育五年計画」である。総経費は九〇万六一六〇円であった。この計画に基づく新設校は幌北(昭9)、幌南(昭11)の両尋常小学校で、既設校の増改築は豊平、東北、桑園、東、大通など尋常小学校一〇校と第二高等小学校で行われた。この計画は当初の予定では十二年度で完了するはずであったが、鉄材などの高騰によって計画が一年間延長された(北タイ 昭12・6・5)。この計画の達成によって、一学級当たりの平均児童数は尋常小学校では六二・六人となり、前計画時と比較して若干減少した。しかし、高等小学校は逆に増加し、五七・五人となった。児童数の増加が教室数のそれを上回ったのである。
これに続く新たな計画の策定はもとより必要とされていたが、十二年からの日中全面戦争への対応によって、それは実施には至らなかった。