昭和十七年一月から施行された「労務調整令」は、労働力の重点的配置や労働者の移動の規制を目的としたものである。国民学校初等科・高等科卒業者も二年以内はその対象となり(同令第六条)、「雇入及就職」はすべて国民職業指導所の紹介によることとした。同令の規定により、札幌職業指導所管内の同年三月の国民学校卒業者の就職先は、「少年産業戦士」(昭和十七年頃からマス・メディアのなかで「少年職業戦士」に代わって使用)として、同職業指導所が指定する「時局産業関係と農村方面」に割り当てられた(東京日日新聞 北海道版 昭17・2・11、3・15)。就職は本人の意向ではなく、国家の意図(「生産戦」)に合致させるように制限されたのである。この時期の「夏季労働実習」の実態を見ると、札幌女子国民学校では四六人の児童が、二週間にわたって札幌被服工業所に出かけ、毎朝七時から夕方四時半まで、ボタン付けとアイロン掛けに従事した(北タイ 昭17・8・15)。
同年十一月、文部省は「国民学校ニ於ケル職業指導ニ関スル件」と題する文部次官通牒を各地方長官宛に発した(北海道では翌年一月に内政部長通牒として各支庁長・市町村長宛に通知)。この通牒は国民学校での「職業指導」の目的を「児童ニ皇国民トシテ将来国家ノ要望ニ即応セル職業生活ヲ営ムニ切要ナル基礎的修練ヲ為ス」ためであると規定した。これは大島輝之助(文部省国民教育局青少年教育課)が述べたように、「錬成せらるべき皇国民」の資格要件のひとつとして、「一定の職業に従事して、その職業を通じて国家にご奉公するといふ」趣旨に基づくものであった(職業指導 第15巻第12号)。そして、その目的達成のための留意点として、「国体ニ対スル信念ニ透徹シ献身奉公ノ実践力ヲ有スル皇国民トシテ必要ナル職分精神ノ昂揚ニ力ムルコト」「国家ノ要請ヲ認識セシムルト共ニ選職及就職ヲ適切ナラシムルコト」など七項目を定めた。
また、同時に「職業指導」の実践内容を具体的に提示した「国民学校職業指導授業要項」を定めた。その一部を紹介すると、高等科第一学年では「職分奉公」「勤労ノ意義」「職業ノ変遷ト種類」「郷土ト職業」「国家ト職業」など、職業全般に関する内容と各業種毎の「特質ト使命」「大要」「従事者ノ覚悟」を取り上げた。第二学年では「皇国民ノ責務」「国民動員」「職業生活」「能率ト人格」「職業ト保健」「我ガ国ノ使命」などを取り上げ、第一学年での実践をさらに深める内容となっている。
十六年四月から国民学校高等科には実業科が設置され、その教科書として『国民学校職業指導教科書』(大日本職業指導協会発行)が十八年四月から使用された。この教科書の表紙には、「総力戦体制」を象徴する稲穂、鶴嘴、スコップ、軍艦、飛行機、工場などが影絵で描かれていた。
昭和十八年三月の札幌国民職業指導所管内の国民学校卒業予定者中の就職者の動向を見ると、その男子の希望職種は「総力戦体制」という時代を反映し、航空機製作関係の工場要員が全体の四〇パーセントを占め、陸海軍関係のそれが二五パーセントで続き、「商店や組合など平和部門」を希望する者は全く存在しなかった(道新 昭18・1・26)。また、同年から割り当てを開始した中国大陸への就職希望者も一〇パーセントほどいた(同前)。一方、女子の場合は七〇パーセントが「給仕」希望者であった(同前)。
実際に中国大陸をはじめとして、北海道を離れて軍需工場に就職した少年少女は、同職業指導所管内で男女合わせて四〇〇人を超えた(道新 昭18・3・24)。「既に就職先から支給された帽子、服、靴でキチンと身を固め颯爽と市内を、町を、村を闊歩し、憎いアメリカやイギリスをやつけるまで頑張るぞと生産増強に気負」っている(同前)。これはその少年少女の四月の出発に向けての様子を報じた『北海道新聞』の記事である。そこには誇張も含まれていると思われるが、実態としてはこれに近かったであろう。
北海道の各地では昭和十八年から動員兵力の増大に伴って、それまで大人の業務と見做されていた職域に少年少女が「進出」した。「進出」を余儀なくされたという表現の方が適切であろう。札幌市内では十九年に札幌消防署に「少年消防士」が出現した(毎日新聞 北海道版 昭19・6・10)。「少年消防士」は満一七歳で、一般消防士と同じ判任官待遇であった(同前)。