ドイツの教育家・フレーベルが幼児に対する家庭での教育を補完する機能を有する施設として、幼稚園(キンダーガルテン)を創設したことはよく知られている。その思想的な影響を受け、日本で最初の幼稚園として東京女子師範学校附属幼稚園が開園したのは、明治九年(一八七六)十一月である。札幌では二十年九月、北海道の女子教育の推進に先駆的な役割を果たしたサラ・クララ・スミスが、私立スミス女学校の開校と同時に設立した同校附属幼稚園が最初である(北星学園百年史 通史篇)。その当時、北海道ではすでに函館師範学校附属小学校仮幼稚園が十六年十一月、私立函館幼稚園が二十年六月にそれぞれ開園していた。スミスが設立した幼稚園はこれらに次ぐものである。
スミス女学校附属幼稚園は開園当初、東京の桜井女学校幼稚保育科でフレーベル主義の教育方法を学んだ長谷部万が初代の教員として着任し、定員(二〇人)を超える園児(三~五歳)を集め、盛況裡にスタートした(同前)。同幼稚園の教育内容は不明な点が多いが、明治二十一年四月二十二日付の『北海道毎日新聞』は「幼稚園」と題して、その一端を次のように報じている。「米人スミス子の設立に係る北二条西五丁目の幼稚園は出席生徒(男女共)二十名内外の由なるが何れも頑是なき小児のみなれは随分世話の焼ける事ならん。受持教師は長谷部マン子にて目下縫取方及長立方体の組立もの其他遊戯法等余程進歩の様子なれとも教場狭隘にして自然体育等の便を欠けは追ては相当の教場へ引移るとの事なり」。この記事中に報じられている「縫取方及長立方体の組立もの」とは、フレーベルが考案した幼児用の遊具のことで、当時、「恩物」と呼ばれていた。「恩物」はフレーベルが万有在神論───人間は神性を持っているが、神の認識に到達するためには、神の創った自然の研究が必要であるという考え方───の立場から、幼児用に自然の姿を象徴化したもので、日本でも幼稚園の教育活動の中心的位置を占めた(文部省 幼稚園教育百年史)。この「恩物」は「六球法恩物」「三体法恩物」「第一積体法恩物」「置板法恩物」「模型法恩物」など二〇種類に分類されていた(文部省教育雑誌 明治11年12月号)。
同幼稚園の園児数の推移を見ると、二十三年に四三人に達したのをピークとして次第に減少し、二十六年には一八人となった。そして、翌二十七年には園児の募集を停止した(北星学園百年史 通史篇)。その理由は、財政上や施設上の問題に加えて、園児の減少の大きな要因となった創成小学校附属幼稚園の存在も見のがせない(同前)。同幼稚園の園児のなかには、札幌農学校第一期生の佐藤昌介、大島正健、伊藤一隆などの子女も含まれていた(同前)。