昭和十一年、プロレタリア作家同盟札幌支部準備会の関弘義、佐々木宣太郎、山岡上治、笠井清らによって北方文学社から『北方文学』が創刊された。昭和九年に解散した日本プロレタリア作家同盟(通称ナルプ)の再建をめざす動きが地方にあったことを物語る歴史的資料である。しかし、翌年の日中戦争勃発以後激しくなったプロレタリア文学への弾圧によって活動できなくなった。この北方文学社の活動は、戦後の新日本文学会北海道支部協議会機関誌第二次『北方文学』(昭22・10)に引き継がれた。
写真-3 『北方文学』『親潮』『北方圏』
昭和十五年六月、北方文芸協会から小島正雄が編集兼発行人となって『親潮』が創刊された。巻頭言に「高邁な理想の下に北海道、樺太の新進作家、進歩的文芸愛好者を糾合し、北方文芸協会を創立」とあり、地域文化の育成をはかったものだったことがわかる。林容一郎の評論「地方文学と文化の問題」、吉田十四雄の小説「叺」、鶴田知也の随筆「アカシヤの街に寄す」、児島まさよの小説「母」などが発表された。この雑誌の性格については『特高月報』(昭17・9)の中に、「客年十二月九日(注・昭和16年)に非常措置に於て検挙せる文化団体『北方文芸協会』中心分子小樽新聞記者佐貫徳義を取調中」とある。さらに、佐貫は同志と「秘かに結成せられありたる日本共産党監房細胞に加盟」し、「右目的の下に札幌市に於て同志小島正雄、吉田十四雄と共に発起人となりて文化団体『北方文芸協会』を結成し機関紙『親潮』を発行して社会主義的リアリズムに基く小説、評論其他の意識的作品を掲載すると共に、屢々之が合評会を開催し或は個々に接触して一般会員を指導啓蒙しつつありたり」と続く。
ここで弾圧の名目を「社会主義的リアリズム」を標榜したとしているのは、前記「ナルプ」弾圧と同じであり、庶民の窮状をありのままに描くことを反体制とみなしていた警察側の見解がみえてくる。昭和十五年に全道的な規模で綴方連盟事件が起こっているが、子供にありのままの作文を書かせることを、共産党の陰謀とでっちあげたことと同じ論理が「北方文芸協会」にも適用されていて、戦時下の弾圧が全国的に徹底されていたこの時代の暗黒面がうかがえる。