大正から昭和戦前期に爆発的なブームとなった楽器にマンドリンとハーモニカがある。
大正十一年、北海道帝国大学チルコロ・マンドリニスティコ・アウロラが発足し、同団体主催による札幌学生連合マンドリン大会が行われ、小樽商業、札幌工業卒業生、小樽中学、札幌北海中学、北大「アウロラ」の五校が出演し、小樽シンフォニアが賛助出演した。マンドリンは昭和七年以降、黄金時代を迎えるが、その中心にいたのがこの頃東京より帰札した九島勝太郎である。九島は石井春省のあとをうけて、北大「アウロラ」の二代目顧問となり、昭和十一年には、誕生した札幌プレクトラム・アンサンブルを主宰する(「北海道のマンドリン」抄)。
大正中期から昭和初期にかけて、最も大衆に親しまれていた楽器はハーモニカであり、ハーモニカバンドは、師範、一中、二中、札工、北中、札商、札幌ハーモニカソサエティー、北海リードバンド、札幌ハーモニカ研究会、札幌ハーモニカマンドリン研究会など、盛況をきわめた。北中三年の早坂文雄は全国大会で優勝するし、荒谷正雄も札商でハーモニカバンドのリーダーであった(札幌と音楽)。『北海タイムス』にはハーモニカ演奏会が頻繁に報じられる。
そのほか、今井洋物店の管楽アンサンブルは明治二十年代後半から大正時代、昭和二年から七年まで活動したし、大正十二年九月に発足した札幌音楽協会には、声楽部・研究部と並んで器楽部があった。
作曲では、昭和十年に「日本狂詩曲」でチェレプニン賞をとった伊福部昭、昭和十四年に「古代の舞曲」でワインガルトナー賞をとった早坂文雄がいる。この伊福部昭・早坂文雄に、評論家三浦淳史を加えた新音楽聯盟が昭和七年に創立され、昭和十三年ごろまで活動している(北海道音楽史)。