大正十五年(一九二六)六月、北海タイムスは「北海道飛行協会」の設立を主唱するとともに、航空部を新設した。主任には、前東亜飛行専門学校一等飛行士永田重治を迎えている(北タイ 大15・6・12)。当時、自社で航空機を所有している新聞社は少なく、北海タイムスは全国で三番目であった。その後、同社は昭和十五年までに六機の航空機を所有し、地方新聞社としては最大級の航空力を誇った。しかし、小樽新聞の反応も早く、大正十五年六月「北海道定期航空協会」の設立を主唱し、航空機二機を入手している。この協会の設立に関し、「会々(たまたま)我社の此計画を洩れ聞いて坊間別に航空協会設立の議をなすものあるも右は我社の計画とは全然別個のものであります」という、明らかに北海タイムスを意識した記事を掲載している(樽新 大15・6・10)。両社の競争意識の高さを象徴する一件であろう。
さらに同年、青函海底電話の開通(4月)をきっかけに両社は夕刊の発行を計画する。北海タイムスにとっては、創立二五周年記念事業の一つでもあった。計画は極秘のうちに進められ、どちらも社告なしで突然発行したにもかかわらず、発行日は同じ六月十二日であった。当日、自動車に「夕刊発行」のマークを付けて市内を一巡しビラを撒くという、その宣伝方法も両社全く同様であった(写真14、北タイ・樽新 大15・6・12)。紙面はどちらも朝刊を利用した変則的なもので、朝刊とも夕刊ともつかない体裁だった。唯一の変化は題字の扱いで、北海タイムスは題字の下の「本紙十二頁」を「夕刊共十二頁」に改めた。これに対し、小樽新聞は題字の上部に「夕刊」、下部に「四頁(夕刊一部定価金二銭)」の字句を入れて変化を付けている。また、北海タイムスは夕刊発行を特に印象づけるような紙面作りはしていないが、小樽新聞は三段抜きで「本日より/夕刊発行」の社告を掲載している。少しでも競争紙に差を付けようとしていたことがうかがえる。両社の競合は、昭和十七年の『北海道新聞』創刊まで続くことになる。
写真-14 夕刊発行を知らせる新聞社の宣伝カー(大15.6.12) 北海タイムス(上)と小樽新聞(下)
大正期の地方新聞は、「帝国通信社」(帝通)と「日本電報通信社」(電通)の系統によって二分されていたことと、政党色の濃いことが特徴であった。北海タイムスは電通系で政友会色が濃厚であるのに対し、小樽新聞は帝通系で民政色が濃かった(日本マス・コミュニケーション史)。掲載記事も北海タイムスが政治面に重点を置いているのに対し、小樽新聞は経済面に重点を置いていた(新北海道史 第五巻)。新聞広告の掲載量は社勢を示す一つの目安となる(同 第四巻)が、明治期小樽新聞は全国有力紙中首位(七〇万二〇〇〇行)、北海タイムスは二位(六四万七〇〇〇行)であった。明治四十三年当時の一日当りの発行部数においても、小樽新聞が二万八三三三部に対し北海タイムス二万部と、勢いは小樽新聞の方にあった。それが大正期、小樽新聞に社内紛争(大7)が起きた頃から勢いは逆転し始める。北海タイムスは発行部数において、大正三年の時点ですでに小樽新聞を追い抜いている(表14)。
表-14 二大紙の一日当りの発行部数 |
社名 | 明治45 | 大正3 | 大正6 | 大正10 |
北海タイムス | 30,000部 | 38,400 | 61,167 | 94,133 |
1.休刊日を考慮し,1年を300日として算出した。 2.『北海道庁統計書』より作成。 |
道内二大紙と他のローカル紙には、道内外の通信施設の優劣、紙面頁数の多寡、輪転機の保有台数の違いで格差が生じていたが、これは二大紙間においてもいえることであった。大正十四年当時の状況は、〔北海タイムス〕朝刊一二頁・輪転機七台・字母・写真版設備、〔小樽新聞〕朝刊一二頁・輪転機四台・写真版設備、となっている。他のローカル紙が輪転機一台あればいい方であることを考えると、両者の設備は群を抜いている。しかし、輪転機の台数は北海タイムスの方が多く、小樽新聞が提携している通信社(帝通)が衰退したこともあり、勢いは完全に北海タイムスに移った。こうして道内一の有力紙となった同社は、新聞統合において主導権を握ることとなる。後年、元小樽新聞社員森川勇作は「統合で樽新社員は道新に雪崩れこみます。北海タイムスと二つの勢力が、ぎくしゃくしたことも事実です。役員から、部長クラス、一般社員までも対抗意識がありました。」(あゝ樽新 在りし日を偲ぶ回想集)と回想している。なお、昭和八年現在の札幌の新聞は表15のとおりである。
表-15 戦前期の札幌の新聞 (昭8年12月1日現在) |
題名 | 刊別 | 初刊 | 題名 | 刊別 | 初刊 | |
北日本興業通信 | 月10回不定時 | 昭3. 4 .22 | 北海タイムス | 日刊 | 明20年8月29 | |