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吉田内閣倒閣運動

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 既述のように、社会、共産、協同三党札幌支部と市内の全労働団体が中心となって札幌市民食糧管理協議会が結成された。こうした政党間の共同闘争の背景には、中央での統一戦線結成への気運の高まりがあった。昭和二十一年一月の山川均の人民戦線結成の呼びかけと共産党の天皇制に対する方針転換によって民主戦線結成の運動が盛り上がりを見せ始めた。同月二十六日の野坂参三帰国歓迎国民大会、四月七日の民主人民連盟による幣原内閣打倒人民大会が開催されるなど、事態は急進展した。
 二十一年四月、戦後初の総選挙は各政党が独自に選挙戦を戦ったが、食糧問題の悪化と大衆運動の高揚は戦線統一への運動をさらに継続させていった。
 総選挙後の五月一日、戦後初となる第一七回メーデーが行われた。これは実に一一年ぶりのメーデーであった。全道で二〇万人あまりが動員された。札幌では大通四丁目広場で開催され、約五〇団体、二万人余りが参加した。このメーデーには北海道労働組合連盟と総同盟北海道地方連合会の両者が共同で参加していた。参加者のもつプラカードには「民主人民政府の樹立」などと書かれ、民主人民戦線・労働戦線の統一を要求する声が漲(みなぎ)っていた(道新 昭21・5・2)。五月十九日には全国規模で食糧メーデーが行われた。宮城前に二五万人が押しかけたこの日、札幌でも市民大会が開催され、「餓死反対」が叫ばれた(道新 昭21・5・20)。八月三十日に開催された読売新聞社主催の全国食糧増配大会札幌大会では、有馬英二(保守系無所属)と新妻イト(社会党)の二人の代議士と渡辺惣蔵札幌市民食糧委員会委員長が演壇に立ち決議文を採択している(道新 昭21・8・31)。
 二十一年五月二十二日に、連合国総司令部(GHQ)の手助けによって第一次吉田内閣が成立したが、深刻な食糧難とインフレが続き、国民生活の困難さは変わらなかった。これに対し、民間労働者と公務員労働者の闘争が合流し、十一月二十九日に社会党の提唱によって産別会議、総同盟、日本労働組合会議、国鉄、全逓など一七の主要な労働組合が参加する全国労働組合懇談会(全労懇)が結成された。全労懇は十二月十七日、吉田内閣打倒国民大会を開き、全国で五〇万人が参加した。十九日には社会党左派と共産党、その他の統一組織である倒閣実行委員会が結成された。北海道でも十二月十七日に吉田内閣倒閣道民大会が札幌で開催された。社会党・共産党に総同盟・産別会議その他全道の労働戦線が動員されて、西創成小学校には二〇〇〇人が集まり、吉田内閣打倒、社会党中心の民主政府樹立の宣言文が採択された(道新 昭21・12・18)。