改選なった市議会の会派構成は次のようになった。保守系議員の中には原田與作当選で積極的に動いた「原田派」とその他の議員たちの間に対立があり、結局前者は新政会(一五人)、後者は新人議員のほとんどを吸収して公正会(二一人)をそれぞれ結成した(道新 昭34・5・3、5・5、5・12)。他は社会党一四人、共産党一人、無所属一人となった。
その後、会派構成はいくつかの変動が生じた。まず、社会党は左右の対立を生じ、それが古手議員と労組出身若手議員との対立という形で表れた。中央では昭和三十四年十月に社会党から西尾派が離党して民社クラブを結成し、翌年一月に民主社会党を旗揚げしようとしており、この動きに応じて一月十六日社会党議員会から四人の議員が脱会し、市政クラブを結成した(道新 昭35・1・15)。市政クラブからその後一人が脱会し、十二月十九日に残りの三人で民社党議員会が結成された。
保守系会派では、先の衆院補欠選挙で自民党の推薦を得られず立候補を辞退した寿原正一と高田富與の対立がもとで、高田派の六人が新政会から脱会し、無所属となった。残留した八人からさらに五人が脱会し、先の脱会六人に市政クラブを脱会した一人を合わせて三十六年三月七日に同志会を結成した。市議会役員ポストをめぐって、新政会残留三人と民社党議員会は六月二十六日に民自クラブを結成し(後に民政会と改称)、最大会派の公正会からも八人が分離して翌年五月十一日に政和会を結成した。第一期原田市政末期には保守三会派が並び(公正会一三人、政和会八人、民政会七人)、これに社会党九人、共産党一人、無所属一人という会派構成となった(十期小史)。自民党議員は保守系各会派に分属して、一つの会派としてまとまることはなかった。