原田市政の下、大きくクローズアップされたのが公共料金値上げ問題であった。高田市政のもとでも、昭和二十八年の電車料金値上げ問題、三十三~三十四年の下水道使用料賦課問題が論議を呼んでいた。原田市長時代になると、大規模な都市建設が構想、実施され、物価上昇も激しくなり、一方で労働運動と革新政党が進出してくる中、公共料金問題は市政で大きな注目を集めるようになった。
三十七年三月の市議会で市電市バス料金値上げ案が提案された。これに対して、市長提案の直前の三月五日に早くも「物価値上げ反対札幌市民会議」から値上げ反対の請願が出され、以後これを含めて一二件の値上げ反対の請願が三月市議会の予算特別委員会に提出された。請願の署名は五万人に及んだ(十期小史)。十四日からの大綱質問で革新派議員は公共料金値上げに集中して五日間にわたって質疑を行い、さらに社会党は特別委員会設置の動議を提出したが、議論を尽くしたとする保守派議員によって賛成少数で否決されたため、社会党議員が議場から総退場する事態が起こった。予算特別委員会で社会党は公聴会開催の動議を提出したがこれも否決された。三月二十二日の予算特別委員会第二部には「物価値上げ反対札幌市民会議」の五〇人が詰めかけた(道新 昭37・3・23)。二十四日には大通西七丁目広場で「物価値上げ反対市民大会」が開催され、市内をデモ行進した後、一〇〇〇人が議場に押し掛け、傍聴の要求や値上げ反対の請願を提出したりした(道新 昭37・3・25)。二十六日の予算特別委員会でも革新派は執拗に質問を行ったが、翌日午前六時十五分にようやく保守派多数で値上げ案を可決した(道新 昭37・3・27夕)。二十八日の本会議も徹夜議会となって、翌日にようやく可決を見た。
四十年には市電・市バス及び下水道料金値上げ問題が生じた。下水道は三十九年度より、市電・市バスは四十年度より赤字に陥っており、九月の市議会に札幌市営企業等調査審議会条例案が提出された。これは十二月の市議会で可決され、第一(交通、中央卸売市場、市立病院)と第二(水道、下水道)の二つの部会が置かれた。翌年四月十七日に答申が出され、これにもとづいて交通および下水道の料金値上げ案が六月の市議会に提出された(十一期小史)。市議会には六月十四日に「交通及び下水道料金改定に関する審査特別委員会」が設置され、二十三日に公聴会も開催された(道新 昭41・6・23夕)。特別委員会では保革両派の議員が激しく対立し、延長された会期最終日の七月五日にまで質疑は続いた。保守派議員から質疑打ち切りの動議が出され可決されたため、社会、公明、共産三党の委員はこれに抗議して全員退席したが、そのまま採決に入り、五日未明に交通料金は原案通り、下水道料金は一部修正で可決された(道新 昭41・7・5)。同日夕刻に物価値上げ反対市民会議、安保破棄諸要求貫徹実行委員会、札幌地区労やサラリーマンなど三〇〇人が市議会に集まり、議場への廊下を埋めた。午後十一時十五分に市長は議場に入り、公正同志会、新陽クラブの議員三一人は出動した六〇人の警官隊に見守られて十一時二十五分に議場入場を果たした。傍聴席からは「値上げ反対」のシュプレヒコールが沸き起こる騒然とした状況の中、社会、公明、共産三党の議員と、社会党議員と議長室で交渉していた正副議長が不在のまま、仮議長を選出、採決がなされた(道新 昭41・7・5)。こうして市電・市バスおよび下水道料金値上げ案は可決された。この後、社会党、共産党の議員から市議会解散の決議案が八月五日の市議会で提出され、十二月十三日の市議会では社会・公明・共産三党共同提案による値上げ延期決議案が提出されたが、いずれも賛成少数により否決された(十一期小史)。
この時期は労働運動を中心に大衆運動が高揚していた。それを背景に札幌市議会でもまれに見る大きな紛糾が生じた。多くの議案をめぐって、保守派議員・市長と革新派議員(時に公明党が加わる)の対立という構図が見られるようになった。