ビューア該当ページ

中国人・朝鮮人労働者の送還

512 ~ 516 / 1021ページ
 日中戦争の拡大にともない日本国内の労働力不足を補うために、昭和十四年から朝鮮人を強制的に「移入」(=強制連行)し、太平洋戦争突入後の十八年からは、大陸から中国人を連行して鉱山・土木工事・荷役等に使役していた。敗戦時の北海道内には、石炭その他の資源が豊富なこともあり、ほかの府県よりもこれら「移入」朝鮮人・中国人労働者が多く働いていた。『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』によれば、当時の資料等から、道内在住の朝鮮人は約一一万人で、そのうちの強制連行による移入労働者は約八万人程度であった、と報告されている。また一方、道内在住の移入中国人は、外務省管理局作成『華人労務者就労事情調査報告書』(昭21・3・1)では、「終戦時」一万二五八六人と把握され、『長官事務引継書』(昭22・2)では、「終戦直後」一万二五七三人と報告されているところから、一万二五〇〇人くらいとみて大過ないであろう。いずれも、炭鉱や軍需工場で働かされ、十分な衣食を与えられなかったばかりか、戦時生産増産のため、過酷な労働を強いられ、事故や病気で命を落とす者も少なくなかった。
 札幌市の場合、移入中国人労働者の使役事業場はなかったが、朝鮮人労働者は、手稲鉱山(三菱鉱業)と豊羽鉱山(日本鉱業)のほか、陸軍第一(丘珠)飛行場や陸軍北部軍司令部地下壕建設工事場(現北海道神宮裏山)、その他で使役されていた。手稲鉱山(手稲村=現札幌市域)の場合、昭和十四~十五年にかけて朝鮮人労働者の移入実数は五八四人にのぼり、十七年までに七二三人(北海道と朝鮮人労働者)が連行された。また、定着率を高めるため家族を朝鮮から呼び寄せ、逃走防止や再契約奨励に役立てていた。このため、十五年には手稲村立星置小学校に、朝鮮人児童が一・二・三学年合わせて三三人が転入した(小林久公 星置小学校沿革誌抄)。これらの児童は、次第に増加したとみえ、二十年十一月三十日、朝鮮人集団帰国にともない一一五人が退学・帰国している(同前)。
 一方、豊羽鉱山(豊平町=現札幌市域)の場合も同様に十四年から朝鮮人労働者の移入が開始され、十七年六月末までに九九六人が連行された。また手稲鉱山と同様に、定着率を高めるため家族を朝鮮から呼び寄せていた者は一〇〇世帯にも及んだ(豊羽鉱山三十年史)。しかし、十九年九月の坑道の水没事故により、休業に追い込まれ(同前)、労働者は他の鉱山等へ移動させられた。
 これらの移入労働者は、二十年十月から翌二十一年一月までの間に、ほぼ全員が集団帰国するにいたるが、その概略を述べておく。
 敗戦後、朝鮮人・中国人労働者たちは、職場を放棄し、待遇改善と戦争中に受けた虐待の責任究明を求めて集団行動を展開し、十月七日には、北炭夕張鉱で朝鮮人労働組合が結成された。前述の『北海道と朝鮮人労働者』には、当時の新聞等から、八月十五日から十一月二十八日までの間の約三一件の「暴動」事件を詳細に掲げている。彼らの要求内容は、強制労働への抗議、賃金支払い問題、食糧・衣服の要求、送還問題等々多岐にわたるが、あえて整理するならば、日本の敗戦に伴っての、労働者側の待遇改善と帰国要求が主因であったと、見ることができよう。
 当時北海道庁側で、中国人・朝鮮人労働者の行動についてどのように認識していたのか、昭和二十年十月および二十一年二月の道庁長官の『事務引継書』からも窺うことが出来る。それらから見る限り、道庁側は「暴動」事件に対し、「優越感ニ基ク反感的不法行為」として一方的に断罪している。二十年十月の『事務引継書』の「移入朝鮮人労務者ノ帰鮮計画輸送ノ件」においては、「在留」労働者は、就労しないばかりか、即時「帰鮮」を迫り、計画輸送の関係上受け入れられないとなると、「暴行」事件の頻発、これによる採炭量の激減は極めて憂慮すべき状況であることが記されている。
 日本政府は、事態打開のために米第八軍に現地視察を要請した。これより先に米軍も、北海道に進駐した第七七師団長ブルース少将の名前で、十月下旬に「北海道各地に在住する華人、朝鮮人に対する布告文」を出して米軍の駐屯のためには石炭が必要であり、そのために中国人・朝鮮人労働者の石炭増産への協力がぜひとも必要であると訴えていた。米軍調査団は、十月下旬から北海道内の調査を実施し、労働者の現状についての報告書をまとめた。そして、十一月四日、札幌の第七七師団司令部で会議を開き、その対策を検討した。出席者は、米軍側が現地軍のランドル少将、クック中佐ほか七、八人、第八軍のバラード大佐一行五人、それに朝鮮代表三人、日本側が中央から派遣された終戦連絡中央事務局総務部総務課長朝海浩一郎のほか、北海道庁内政部長、北海道地方鉱山局総務部長等である。会議の冒頭で議長のバラード大佐は次のように述べた。
日本経済の再建に当たり日本側は一つの難関に逢着せり。(中略)結局日本側の説明によれば増産の障碍は華人鮮人問題にあるものの如し。本件に付き占領軍は日本側に協力の用意あり。これら華鮮人を急速に帰国せしむる為十一月十五日以降、青森より鉄路毎日一千人宛華鮮人を送還し、十二月一日より更に一千名を海路輸送帰国せしむることと致したく、自分は朝鮮より鮮人代表三名を招致し左の諸点を取りきめたり。

 以上は、『初期対日占領政策─朝海浩一郎報告書 上』(昭53)に記されているもので、取り決めの概要は、日本人、朝鮮人相互に相手方を尊重、朝鮮人代表は米軍を補佐し、労務者の帰国につき斡旋、帰国に際して一〇〇〇円の持ち帰り金の許可、といったものであった。これに対して日本側から、送還に関する治安維持上の問題、キャンプ警備に関して米憲兵の協力要請、輸送に関する重点措置、といった発言があった。
 こうして、米軍は十一月六日、「北海道の炭礦には五千九百六十八名の華人と、三万四千六百八名の朝鮮人がいる。彼等は四十一日の間に完全に送還せらるるものとす」の送還促進計画の策定・発表となり、集団帰国が急がれることとなる(北海道炭礦汽船株式会社 七十年史稿本)。
 中国人・朝鮮人労働者の送還は、これ以前からも行われており、中国人の場合は、十月二十日に第一次引揚として一五三四人が室蘭港から中国の塘沽へ出発していた。一方の朝鮮人労働者の場合は、九月二十八日付けの厚生省健民局長・内務省警保局長の通牒により、十月一日から開始された計画輸送の結果、十月二十九日現在一万四一三二人が帰国していた。しかし、二十年十月の『事務引継書』によれば、九州方面での輸送が逼迫し、一時中止状態にあったことが分かる。
 こうして、送還の基本方針に基づいて全道の朝鮮人炭鉱労働者三万五八〇六人と中国人五九六八人を十一月十四日から十二月二十七日までの短期間に一挙に本国へ送還しようというプランが実行に移されたが、実際には、翌年の一月までずれこんだ。この間の事情については二十一年二月の『事務引継書』に詳しい。
 札幌市の場合、二十年十一月一日現在の朝鮮人は、一八二六人(男一三四九人・女四七七人)が在住していた(昭和二十年人口調査 内閣統計局作成原表)が、同年の送還状況については資料がないので詳細は不明である。しかし、二十一年の場合送還人員一〇六人、うち朝鮮人九九人、中国人二人、その他五人となっている。二十二年中に帰国希望を登録した人員は、朝鮮人七三二人、中国人四六人、その他一二人の計七九〇人にのぼったものの、有資格者として、(1)原則として帰還に関する特権保有者。(2)集団帰還後外地から引揚げた者。(3)軍事裁判により強制帰国指定者、の中から特に希望ある者を申告に基づき、個人別に帰国させたため、帰国者はわずか一三人であった(昭22事務)。
 集団送還後、残留した朝鮮人・中国人は、札幌市に定住する傾向をみせる。二十二年の場合、朝鮮人四二四人、中国人二三人、二十四年の場合、四八五人、三五人、二十五年の場合、六五七人、一七一人(市史 統計編)と、生計をたてるために道内各地からヤミ市や青空マーケットなどに流れこんだ者も多かった。