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食糧危機

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 敗戦直後の札幌市民の生活は、全く混乱の極致にあった。その中でも最も深刻な状況となったのは食糧危機の問題であった。昭和二十年の『市事務報告』は、序文において当時の窮迫の状況を次のように述べている。
然リト雖モ或ハ戦災者、引揚者ノ受入及援護ニ或ハ連合軍ノ進駐等即発即決ヲ要スル緊急事項続発シ、加フルニ伝染病ノ蔓延ハ近年稀ニ見ルノ猛威ヲ揮ヒ、又冷害風水害ニ依ル全国的ナル大凶作ハ、本市ノ食糧事情ニ極度ノ窮迫ヲ加フル等未曾有ノ難関に逢着シタル(後略)

 一五年におよぶ長い戦争の時代が終ったものの、戦争によってあらゆる物資の欠乏のうえに飢餓の恐怖まで襲いかかった。周知のとおり、食糧の供給は、「食糧管理法」(昭17・2・1公布。日中戦争の長期化による食糧需給悪化により、十五年以後、まず米が供出・配給という国家管理下におかれ、のち麦・小麦粉・芋・大豆・雑穀にまで拡大。食管法は、食糧営団を設けて配給機構を一元化するとともに、対象となる食糧は政府の定めた価格で政府の定めた数量を供出しなければならないとした)の下、敗戦後の食糧難に対してもこの法律による統制が続けられ、供出制度は、二十一年強権発動、供出の事後割当制から二十三年の主要食糧の事前割当制に改められ、「食糧確保臨時措置令」公布などにより食糧の計画的生産が強化された。二十年度の米作は史上空前の不作となった。これは、戦時中の肥料、農機具の不足が積み重なったうえ、本土決戦を控えての根こそぎ動員によって、農業労働力が極端に不足し、それにこの年の天候異変が加わったためである。この年の米の収穫高は、約三九〇〇万石で、平年作の六割にしか達しなかった。北海道内の平年作に対する歩合も、米四三パーセント、麦類六八パーセント、豆類三七パーセント、じゃがいも七〇パーセント、そば五〇パーセント、燕麦八五パーセントで、平均五八・八パーセントであった。このうち、主要食糧供出見込量は米に換算して一四九万九一一一石しかなく、このうちから内地向け種子や飼料用食物、その他食用外使用食物等を除くと、配給し得るのはわずか八一万三七八〇石であった(道新 昭20・10・28)。しかも敗戦によって外地調達はなく、内地の食糧不足を補う道も閉ざされた。占領軍は日本の一切の外国貿易を禁止したので、輸入による食糧補給の道も絶望的であった。それに加え、敗戦はそれまでの政府の権威を失墜させ、前途の不安ばかりふくらみ、農民の食糧供出の意欲を全く失わせた。二十年末の供出実績は、割り当ての二八パーセントにしか達しなかった。このため主食の需給は決定的な危機に陥った。
 札幌市では、二十年十一月二十二日札幌市出荷協力委員会を組織し、主要食糧や蔬菜類の供出をはかったが、供出状況きわめて低く、十二月には札幌市食糧対策委員会を設置、同月十七日第一回協議会を開催して食糧供出促進対策を議論する場とした。米穀に代わる代用食としてじゃがいも、小麦粉、さつまいも、食パン、乾パン、かぼちゃ類が配給された。これらの食糧は、北海道食糧営団札幌支所に属する普通配給所六二、代位配給所三をとおして行われていた(昭20事務)。二十年が不作だったため、二十一年米穀年度(昭20・11~21・10)の場合、主要食糧の絶対量を欠いていることから移入・輸入食糧の援助を求めねばならなかった。この危機打開のため、公区民の協力を得て五、六、七月には、主として輸入食糧を含む内地米五日、外米四日、外玄麦・外麦粉八日の重点配給を実施するにいたった。この間の食糧事情は、市民に対し絶大な脅威を与え、全市民挙げて不安動揺の極に達した。このため、五月二十九日、札幌市食糧対策委員会に代わって札幌市民食糧委員会を自主的に設置し、輸入食糧の確保などを政府・道庁当局に対し政治活動を展開していくことになる。それにもかかわらず二十一年末で、「欠配」五二日におよび、市民を不安に陥れた。この年の配給品目を掲げると、内地米、道産米のほか、外麦粉、外とうもろこし、小麦粉、澱粉、缶詰、かぼちゃ、じゃがいも、さつまいも、輸入パイン等も加わった(昭21事務)。二十二年米穀年度の場合、二十一年が豊作だったにもかかわらず、生産者の供出意欲をとみに減退させ、供出実績が低調なことから食糧事情はさらに悪化の一途をたどった。このため、地方自治法一七四条に基づいて、六月二十四日札幌市臨時食糧専門委員会を設置し、主食、生鮮魚介、青果物の諸問題について市長の諮問に応じ協力する機関も生まれたが、二十二年米穀年度開始以来七月二十日現在、北海道の主食遅配日数平均九〇日(全国平均二〇日)、札幌市の場合、七月末段階の遅配日数六二日という、「欠配日本一」と言われるような最悪な事態に直面した。このため、札幌市民は、七月十七日、全札労主催によるはじめての「食糧デモ」の抗議行動に出た。国鉄、日通、電通、全財など、傘下諸団体約四〇〇〇人が財務局前に集合し、「欠配六十余日のすきっ腹をかかえて『食糧よこせ』と、手に手に赤旗、プラカードをかかげ、労働歌を高唱、堂々街頭をねり歩いた」後、道庁に押し掛け、遅配棚上げ反対、遅配平均化促進など七カ条の強行決議文を田中知事に突き付けたという(道新 昭22・7・18)。表6は、二十二年米穀年度の配給実績である。配給日数は、三〇九・九日、したがって遅配日数五五・一日という状況であった。米は、一二二・八日分しか配給されず、小麦粉、とうもろこし、じゃがいも、きび粉、麦、澱粉、大豆粉、その他で補っているのが分かる。しかも、雑穀、粉類、麦等は、次第に輸入食糧の依存が高くなっていった(昭22事務)。また、参考までに二十二年の副食物・調味料の配給実績も掲げておいた(表7)。砂糖の代わりにサッカリンが配給になっているのが注目される。二十三年米穀年度の場合、全配給日数三八一・四日、うち米の配給日数、一八九・七日とやや改善されたものの、相変わらずじゃがいもをはじめ小麦粉、そば粉、きび粉等の粉類が多かった。そういう状況下で、砂糖が二月から配給品目に加わるようになり、十月までに三三日分が配給になったのは市民を喜ばせた。この年八月には、食管法施行規則一部改正となり、全国一律に主要食糧新購入券が実施され、これまでの物資購買通帳を家庭用、農家用、労務用、旅行者用、船員用の主要食糧購入通帳に改め、また、購入指図書を主要食糧特別購入切符に改正した。これは、不正受給を根絶するための措置でもあった。二十四年に入っても配給事情は依然として厳しく、米は一四六・五日分しかなく、小麦粉、じゃがいも、パン等合わせて三六六日分を確保するのがやっとの状態であった。一月から十二月の配給実績では、米一四六・五日分、みそ(一人当り)二貫八二〇匁、しょうゆ(同)三斤四合、油(同)食用油二合五勺、人造バター四〇九グラム、酢(同)三合、家庭用砂糖(同)二・一キログラム、乳児用砂糖、(一歳未満同)四・五キログラム、乳製品(一歳未満同)五〇ポンド、鮮魚(一人当り)九貫二〇〇匁、という状態であった(昭24事務)。
表-6 昭和22米穀年度配給実績(単位:日)
小麦粉澱粉きび粉大豆粉小麦玄とうもろこしじゃがいもさつまいも雑穀全粒粉缶詰うどんそば粉いなきび大豆乾麺その他
21.1115.51.53.02.02.024.0
1235.035.0
22. 113.06.019.0
27.08.015.0
33.50.58.53.502.018.0
414.04.05.002.02.027.0
514.01.51.508.08.033.0
69.32.02.201.01.00.516.0
73.01.74.010.01.33.800.224.0
86.04.05.506.55.701.31.02.032.0
96.016.54.04.003.00.502.0036.0
102.52.18.00.850.6513.02.00.450.351.030.9
合計122.811.355.510.515.0510.513.8523.325.02.02.32.01.00.956.151.26.5309.9
『札幌市勢一覧』(昭23)より作成。

表-7 副食物・調味料配給1人当り実績(昭和22年)
 味噌
(匁)
醤油
(合)

(グラム)
食用油
(勺)
バター
(ポンド)
サッカリン
(グラム)
菓子
(匁)
鮮魚
(匁)
野菜
(匁)
1 月502.02000.1013.3135
2 月701.02005.5200
3 月200200
4 月2005.0818115
5 月1001.0600420230
6 月902.02007.025045
7 月901.5200218226
8 月1001.535010.0180
9 月1102.02000.189.410.0187
10月1301.01,2006.33476,516
11月901.520025.03931,120
12月1202.02000.1718146
合計95015.53,95013.30.4514.963.33,5498,338
『札幌市勢一覧』(昭23)より作成。

 食糧の絶対量が不足しているのは、戦時下と同様であったが、戦後になってからの方がひどかった。このため、家庭菜園や道路菜園作りが戦時下に増して奨励され、『道新』にも「春だ!増産はかうして」(昭21・4・25)といったように紹介記事が多い。主に大根、たい菜、白菜、じゃがいも、トマト、菜豆類等が作られた。また、食べられる野草という野草が採集され、ワラビ、ゼンマイ、よもぎ、アカザの葉、アカシアの葉、イタドリの葉等は、ゆでて乾燥させ、粉食化が奨励された。これは、市民のお腹を満たすには不十分であり、地方への買出しやヤミ市を利用して補った。
 食糧難がようやく解消に向かったのは、二十四年ころからで、輸入食糧の放出が大きな役割を果たした。占領軍の放出物資、米国からの救援米は、まさに飢餓に瀕していただけに最高の贈り物であった。二十四年後半ころから、遅欠配も解消し、食糧事情も次第によくなった。まず主食の配給量は敗戦時の二合一勺だったのが、二十二年二合三勺、二十三年十月まで二合五勺、十一月から二合七勺というように増配された(昭23事務)。食糧事情の好転と並行して、統制撤廃も進められ、二十四年十二月いも類と澱粉が、二十六年三月雑穀、二十七年六月麦の自由販売というように、旅館や食堂などでも外食券の持参なしで食事が可能となった。主要食糧の事前割当制の必要性も薄らいだので、食糧確保臨時措置令は、二十六年末をもって失効となり、十七年以来一〇年を経て食糧不安から解放された。