政府は、公娼廃止よりも占領軍対策に配慮し、財政的裏付けをした占領軍慰安施設の設置に奔走した。敗戦三日後の八月十八日、「外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒」が各県に出された。北海道では、まず九月十八日道庁内に保安課を新設し、十月五日札幌ほか四市駐屯軍に対して特殊慰安施設を置くことに重点を置き、既設の貸座敷・小料理屋を利用して、性的慰安施設を設けることとし、早速接客婦募集に取りかかった。二十年十月の『長官事務引継書』(道文蔵)によれば、最初四五〇人余りしか集まらなかったが、十月末現在で七七〇人余りに増加した、とある。札幌市の場合、保安課新設と同時期に札幌警察署がいち早く札幌白石遊廓の全面的改装、「歓楽街」の復活に乗り出している。敗戦当時、白石遊廓は、四、五軒の貸座敷が営業を続けていたが、札幌警察署は、貸座敷という名称を廃止し、既存の営業停止の建物を復活させるだけでなく、新たに建設するものも含めて約五〇軒をカフェー、キャバレー、バー、ダンスホール、レストランとして九月末までに営業すると宣言した(道新 昭20・9・22)。『私たちの証言 北海道終戦史』によれば、当時小樽警察署でも、RAA設置のために貸座敷にいた元娼妓を中心に百五、六十人の接客婦を集めた、とある。札幌でも同様だったらしく、当時の札幌警察署では、外国人を相手にしていた女性二人に依頼、以前貸座敷で働いていた元娼妓三〇人を探し出して説得してもらった、とある。警察当局側も、復活することについて「断腸の思い」といった言葉表現はあるものの、「良家の子女を守る」ため、「市民の不安を解消する」ためといった大義名分をふりかざし、道庁保安課の指令に逆らえなかったといった状況が窺われる。いわゆる「性の防波堤」の名の下に慰安所はこうして開設された。その一方で連合軍が札幌
進駐する十月五日の『道新』には、「女性の素足 けふから止めませう」の見出しで、注意事項さえ掲載されている(写真12)。
GHQは占領軍内に
性病が蔓延したため、二十一年三月十日、将兵たちにRAA施設への立入り禁止令を出した。日本政府側も、三月二十六日、全国警察署長宛に「
進駐軍ノ待合、接待所、慰安所地域立入禁止ニ関スル内務省保安部長通牒」を出した。RAAが正式に解散したのは二十四年四月である。これにより、
街娼の大量出現と「
赤線」誕生をうながした。みずから街頭に立ち客を誘う
街娼は、占領直後から見られた新しい社会現象で、元娼妓、戦争被災者、職のない女性、
戦災孤児、「
戦争未亡人」、外地からの
引揚者など、前歴・学歴もさまざまな階層の女性がいた。
街娼は「
夜の女」「闇の女」「
パンパン(ガール)」と呼ばれた。
写真-12 連合軍の進駐に際しての注意
(道新 昭20.10.5)
MPは、軍内の
性病予防のため、日本の警察とともに
街娼の「狩り込み」を行ってしばしば通行中の女性を巻き添えにし、検挙・強制検診する事件が起きた。だが巻き添えになった一般女性に対して、警察側は「根拠ない」(道新 昭23・12・16)と否定し、泣き寝入りする女性が多かったのも事実である。